目次

[第五十九話]追放

神は空間を創造した。次に神は様々な物体を創造し、その空間の中に置いた。

さらに神は、様々な種類の生物を創造し、空間の中にそれらを棲まわせた。神が創造した生物の種類の一つは、他の種類の生物とは比較にならないほど高い知能を持つものだった。その種類の生物たちは、神が創造した様々なものに名前を与えた。彼らは自分たちにも「人間」という名前を与えた。

人間たちは、生物がその上で生息している水平な平面を「大地」と呼んだ。大地は正方形であり、それは四方に垂直に立つ白色の平面の壁によって囲まれていた。壁の高さは大地の一辺の長さと同じであり、壁の上には白色の平面の天井が水平に載せられていた。すなわち、生物たちは立方体の空間の中で暮らしていたのである。人間たちは、自分たちが暮らしている立方体の一辺の長さの百分の一を「里」と呼び、一里の一万分の一を「尺」と呼んで、それらを長さの単位として使用した。

人間たちは、大地と壁と天井に囲まれた立方体の空間に閉じ込められていた。大地と壁と天井の外にも何かがあるのではないかと考える人間は、ほとんどいなかった。人間たちは、大地と壁と天井、そしてそれらに囲まれた空間の内部に存在するものの全体を「世界」と呼んだ。

大地には、人間たちが「太陽」と呼ぶ球体が発する熱と光が降り注いでいた。太陽は、壁の一つと天井が交わってできる線分の中央の付近に出現し、反対側の壁に向かって移動し、壁に到達する直前に消滅する、ということを繰り返した。人間たちは、太陽が出現する壁の方向を「東」、消滅する壁の方向を「西」、東に向かって右の方向を「南」、左の方向を「北」と呼んだ。

太陽は、それが消滅した直後に出現するのではなく、それが存在している時間とほぼ同じ時間が経過したのちに出現した。人間たちは、太陽が存在している時間を「昼」と呼び、存在していない時間を「夜」と呼んだ。太陽が出現する周期は常に一定であり、人間たちはその周期を「日」と呼んで、それを時間の長さの単位として使用した。

一日の長さは常に一定だったが、昼と夜の長さは一日ごとに増減した。人間たちは、昼の長さが長くなって昼と夜の長さが同じになる日を「春分」、昼の長さが極大に達する日を「夏至」、昼の長さが短くなって昼と夜の長さが同じになる日を「秋分」、夜の長さが極大に達する日を「冬至」と呼んだ。昼と夜の長さが変化する周期は、常に三百三十三日だった。人間たちは、その周期を「年」と呼んで、それを時間の長さの単位として使用した。

人間たちは、神の姿を見ることはできなかったが、彼の声を聞くことはできた。神は人間たちに様々な戒律を授けた。人間たちはその戒律によって禁止されたことを除いて、自由に行動することを許されていた。

人間たちはすべての生物を、類似性に基づいて階層的に分類した。彼らが作った生物の分類項目のうちで最も上位の階層にあるものは、栄養源の差異に基づくものだった。彼らは、無生物を栄養源とする生物を「植物」と呼び、植物を栄養源とする生物を「動物」と呼んだ。動物に分類される生物は、その中に人間を含んでいた。

植物は、根、幹、枝、茎、葉、花などの部位から構成されていた。動物たちは、植物の種類ごとにそれらの部位のいずれかを栄養源として利用した。また、一部の種類の植物は一年ごとに果実を実らせた。それらの果実もまた、多くの動物にとって主要な栄養源となった。人間たちもその例外ではなかった。

人間たちが「桃」と呼ぶ植物は、夏至のころに果実を実らせる。果実を栄養源とする動物たちの多くは、他の植物の果実と同様に、桃の果実をも栄養源として利用した。しかし、人間のみはそれを食べなかった。その理由は、神が人間たちに授けた戒律が、桃の果実を食べることを禁止していたからである。

いかなる生物の個体も、永遠に生き続けることはできず、種類ごとに定められた寿命に達した時点で生命活動を停止した。人間についても、九十年前後という寿命が定められていた。生物の個体は、自身と同じ種類の新たな個体を作り出す能力を持っていた。人間たちは、この能力を生物が使用することを「生殖」と呼んだ。いかなる生物の種類も、生殖が新たな個体を作り出すことによって、個体の寿命を超えて存在し続けた。

世界が創造された当初は、すべての人間が、戒律を守ることの重要性について語る神の声を聞くことができた。しかし、世界の創造から千年が過ぎたころから、神の声を聞くことができない人間が生まれてくるようになり、その比率は年を追うごとに増加していった。そして、世界の創造から二千年が過ぎたころには、神の声を聞くことができる人間が生まれてくる頻度は、百人に一人という比率にまで減少した。人間たちは、神の声を聞くことができる特殊な人間たちを「預言者」と呼んだ。

神の声を聞く能力をほとんどの人間たちが失ったことは、彼から授けられた戒律を軽視する風潮を生んだ。人間たちは自分たちで法律を制定し、それに違反した者たちを自分たちで処罰した。神から授けられた戒律の大多数は人間たちが制定した法律の中に反映されていたが、そうではない条項もあった。桃の果実を食べてはならないという条項も、人間たちが制定した法律には反映されていないものの一つだった。

桃を食べてみようと思った人間たちは、最初は夜陰に乗じてそれを実行したが、それに対していかなる天罰も下されないということを知ると、白昼堂々とそれを実行するようになった。神から授けられた戒律を破る不届き者たちに対して、預言者たちは強い言葉で警告を発した。しかし、桃を食べる者たちの数は増加する一方だった。

神は人間たちの行動を寛大に見守っていた。しかし、桃を食べる人間たちの比率が人口の三割を超えるに及んで、彼らに天罰を下すことを決断した。彼が選定した天罰は、人間たちが「世界」と呼ぶ立方体の空間からの追放だった。

人間たちが「世界」と呼んでいた立方体の空間とその内部にあるものは、神が創造したものの一部分に過ぎなかった。神は、人間たちを追放するための隧道を東の壁に出現させた。その隧道は、断面の直径が十尺、長さが一里の円筒形だった。そしてその入口は、大地に接する高さにあり、南の壁からも北の壁からも等しい距離にあった。神は、すべての人間がその隧道を通過したことを見届けたのち、その隧道を消滅させた。

隧道を通過した人間たちが見たものは、追放される以前に住んでいた世界と同じ形状と大きさを持つ大地と壁と天井だった。そして、その世界にも太陽があり、昼と夜の区別を作っていた。しかし、その第二の世界は、人間たちがかつて住んでいた世界とまったく同じというわけではなかった。第二の世界には、動物を栄養源として利用する生物が棲息していたのである。人間たちは、植物のみを栄養源とする生物を「草食動物」と呼び、動物のみを栄養源として利用する生物を「肉食動物」と呼び、植物と動物の両方を栄養源として利用する生物を「雑食動物」と呼んだ。

肉食動物たちは、敏捷な動作で他の動物を捕獲し、その獲物の肉を貪った。いくつかの獰猛な種類の肉食動物たちは、隧道から新たに出現した種類の動物をも自身の栄養源とみなした。人間たちは、一人また一人と肉食動物の餌食となっていった。人間たちは、自分たちに与えられた第二の世界が自分たちの安住の地ではないということを知った。

第二の世界には、北の壁と南の壁のそれぞれに扉が存在していた。それらの扉は、神が預言者に授けた呪文を唱えることによって開閉することができた。それらの扉の奥にあったものは、いずれも隧道だった。それらの隧道は、人間たちが追放されたときに通過したものと同様に、断面の直径が十尺、長さが一里の円筒形だった。そしてそれらの隧道の末端にも、呪文によって開閉することのできる扉があった。人間たちは調査隊を派遣して、それぞれの隧道の先に何があるかということを調査した。その結果、それぞれの隧道の先には、人間たちが知っている二つの世界とまったく同じ大きさを持つ立方体の空間があるということが判明した。

人間たちは、肉食動物によって絶滅させられることを回避するために、隧道を抜けて第三の世界に移住するという決断を下した。彼らは卜占によって北の隧道を選び、その先にある立方体の空間を第三の世界とした。第三の世界には獰猛な肉食動物は棲息していなかった。しかし人間たちは、その世界もまた自分たちの安住の地ではないということを知ることとなった。

第三の世界の中央には火山があり、常に噴煙を上げていた。移住の四十日後、その火山は大規模な噴火を起こした。噴石や火砕流による犠牲者は人口の一割に及んだ。その後も、五十日から百日の周期で大規模な噴火が発生し、その度に多数の犠牲者が出た。

第三の世界には、肉食動物が棲息している第二の世界に通じている南の壁の扉のみではなく、天井にも扉が存在していた。天井の扉は西の壁に接しており、南の壁からも北の壁からも等しい距離にあった。天井と大地との間には昇降機が設置されていた。その昇降機は、神が預言者に授けた呪文を唱えることによって操作することができた。天井の扉の上には長さが一里の縦穴があり、その縦穴の上端にも扉があった。縦穴の下端の扉は、昇降機の通過に伴って自動的に開閉した。

人間たちは、火山の噴火によって絶滅させられることを回避するために、昇降機を使って第四の世界に移住した。彼らは、第四の世界が第一の世界と同様の楽園であることを願ったが、その願いは叶えられなかった。第四の世界は、夏至の前後の時期には夜がなく、冬至の前後の時期には昼がなかった。その世界の生物はそのような環境に適応していたが、人間はそうではなかった。夜が続く時期には著しく気温が下がり、多くの人間が凍死した。昼が続く時期には大地は乾燥し、飲料水は枯渇した。

第四の世界には、東西南北のいずれの壁にも扉は存在していなかった。そして天井にも扉は存在していなかった。第四の世界とそれ以外の世界との間の通路は、その大地に穿たれた縦穴のみだった。すなわち、第二の世界に存在する北の隧道から到達することのできる二つの世界は、袋小路を構成していたのである。居住に適した世界を探求する人間たちの旅は、第二の世界への後戻りを余儀無くされた。

第二の世界に引き返した人間たちは、南の壁に存在する隧道を抜けて第五の世界へ移動した。しかし、その世界もまた人間たちにとって安住の地ではなかった。第五の世界には、その北の壁と西の壁に扉が存在し、さらに大地にも扉が存在していた。人間たちは卜占によって大地の扉を選び、その扉の下に設置された昇降機を操作し、第六の世界の大地に降り立った。

人間たちは、世界から世界へ何度も移動するうちに、しだいに、大地と壁と天井に囲まれた立方体の空間とその内部にあるものを「世界」とは呼ばなくなっていった。彼らがそれまで「世界」と呼んでいたものを呼ぶ新たな言葉は「区画」だった。そして、「世界」という言葉は、多数の区画が三次元的に整然と並んで構成されている構造物の全体という新たな意味で使われるようになっていった。

人間たちは、あるときは壁の隧道を抜け、あるときは天井へ昇り、あるときは大地の下へ降ることによって、安住の地を求めて区画から区画へ移動していった。彼らがいかなる道を選んだとしても、それには必ず行き止まりが存在していた。行き止まりに到達した場合は、最後の分岐点、すなわち未知の区画に通じている扉を持つ最も近い分岐点まで、後戻りしなければならなかった。行き止まりから最後の分岐点までの区画の個数は、一区画のみの場合もあれば、三十区画を超える場合もあった。最後の分岐点までの区画の個数が極めて多い場合、そこへ向かって後戻りする人間たちの心は、失意と落胆に打ちひしがれていた。

人間たちが通過したそれぞれの区画が持つ環境の過酷さには、程度の差があった。過酷さの程度が低い区画では、人間たちはその環境の中で苦労して子供を育て、人口を増加させた。しかし、過酷さの程度が高い区画では、子供を作ることができる年齢まで生き延びる者たちの数は、死亡する者たちの数に届かなかった。過酷さの程度が極めて高い区画では、次の区画へ一直線に移動する間に大多数の人間が死亡し、人口は数十人にまで減少した。

預言者が生まれてくる頻度は、人間たちが第一の区画から追放されたのちも減少の一途をたどった。そして追放から五百年が過ぎたころには、その頻度は千人に一人という比率にまで減少した。預言者が生まれてきた場合、人間たちは彼または彼女に対して、自分たちの罪が許されて第一の区画に帰還することを許される日が、いつかは自分たちに訪れるのかと尋ねた。その質問に対する彼または彼女の回答は、常に次のようなものだった。

「神は、桃を食べた人間たちの罪を永遠に許さないであろう。第一の区画はこれから先も、いかなる隧道も縦穴も持たない閉ざされた空間であり続け、人間がそこへ帰還することができる見込みは、まったく存在しない。しかし、この世界のどこかには、第一の区画ほどの楽園ではないものの、ほとんどすべての人間が天寿を全うすることのできる環境を持つ区画が存在している。もしも、その区画が人間たちによって発見されたならば、苦難に満ちた我々の旅は終わりを告げ、神から授けられた戒律を我々が再び破ることがない限り、我々はその区画に永遠に留まり続けることができるであろう」

預言者が生まれてくる頻度はその後も減少の一途をたどり、追放から二千年が過ぎたころには、その頻度は一万人に一人という比率にまで減少した。どの預言者についても、彼または彼女が伝える神の言葉は、以前の預言者が伝えたものと同工異曲だった。しかし、追放の二千三百八十七年後に生まれたバムセナという預言者は、彼女以前の預言者とは大幅に異なる神の言葉を伝えた。彼女は人々に次のように語ったのである。

「追放の三千年後に、神の子が人間として生まれてくる。その者の目的は、桃を食べた人間たちの罪を一身に背負って処刑されることによって、その罪を贖うことである。したがって、その者が生まれてきた場合には、人間たちは、何らかの世俗の法律によって彼または彼女を裁き、有罪の判決を下し、そして処刑しなければならない」

人間たちは、自分たちの罪を贖うとバムセナが語る神の子を「救世主」と呼んだ。追放の二千七百三十七年後に生まれたキナリコスという預言者は、「救世主は、追放から三千年が過ぎたのちに最初に訪れる春分から、その次に訪れる春分までの一年間のうちに生まれてくるであろう」という神の言葉を伝えた。

キナリコスが伝えた言葉の中で指定されていた、春分から春分までの一年間に生まれた子供の数は、二百七十六人だった。それらの子供たちのうちで、明らかに普通の子供とは異なる特徴を持つ者は、誰もいなかった。人間たちは、彼らのうちの誰が救世主なのかということを見定めるために、彼らを注意深く見守った。

救世主となるであろう子供を含む子供たちが生まれた年の三十年後、三十歳を迎えた彼らのうちの一人が、人間たちの耳目を集めた。その一人というのは、ダマダカという名前の女性だった。彼女が耳目を集めた理由は、彼女が様々な奇跡を起こしたからである。彼女は、病気に苦しむ者たちに癒しを与え、貧困に喘ぐ者たちのために石を果実に変え、政治的な迫害を受けている者たちに対して自身を不可視にする術を授けた。人間たちは、彼女こそが救世主に違いないと思った。

人間たちは、死罪に相当する違法行為をダマダカが実行することを、期待を込めて待ち続けた。しかし、彼女が実行するあらゆる行為は、世俗法を完璧に遵守していた。人間たちのうちで司法に携わる者たちは、鳩首凝議し、世俗法によって彼女を裁くためには何らかの無実の罪を彼女に着せる必要がある、という意見で一致した。

ある日、治安の維持に携わる人間たちのうちの二人がダマダカのもとを訪れた。その二人は問答無用で彼女の身柄を拘束した。彼女にかけられた嫌疑は、「現在の政権を転覆させ、自身を人間たちの王にすべく蜂起せよ」と人間たちを煽動した、というものだった。彼女を裁く裁判が開廷され、捏造された無数の証拠物件が提出された。そして有罪の判決が下され、彼女は刑場の露と消えた。

ダマダカが処刑されたのち、人間たちの中に、預言者たちが伝えた神の言葉は成就したのか否かということをめぐる三つの派閥が成立した。派閥の一つは「帰還派」と呼ばれた。彼らは、ダマダカの処刑によって、桃を食べた罪が贖われたのであるから、自分たちは第一の区画に帰還することができるはずだ、と主張した。派閥の別の一つは「継続派」と呼ばれた。彼らは、自分たちの罪は確かに贖われたのであるが、それは第一の区画に帰還することができるということを意味するわけではなく、天寿を全うすることのできる区画を探索する自分たちの旅はこれからも続くのだ、と主張した。派閥のさらに別の一つは「懐疑派」と呼ばれた。彼らは、ダマダカが本当に救世主だったという確証はどこにもなく、したがって自分たちの罪が本当に贖われたのか否かは定かではない、と主張した。

帰還派の人々の比率は、人口の一割に満たなかった。彼らは、神は第一の区画と第二の区間との間に再び隧道を出現させたに違いなく、すべての人間は今すぐその隧道を抜けて第一の区間に帰還するべきだと主張した。しかし、帰還派の主張は、それ以外の派閥の人々からの支持を得ることができなかった。なぜなら、もしも第一の区画と第二の区間との間に隧道が存在しなかったならば、そこへ戻るために費やした時間が無駄になってしまうと大多数の人々が危惧したからである。

継続派は、ダマダカの処刑の直後には圧倒的な多数派だったが、それを支持する者たちの比率は徐々に減少していった。なぜなら、キナリコス以来、一人の預言者も生まれてくることがなく、したがって人間たちは、自分たちの罪が本当に贖われたのかどうかを確かめる術を持たなかったからである。結局、ダマダカの誕生から二百年が過ぎたころには、人間たちの多数を占める派閥は懐疑派となっていた。

ダマダカの処刑をめぐる派閥の勢力図は、彼女の誕生から三百年が過ぎた時代に、再び大きく変化することとなった。その変化の原因となったのは、人間が消失する現象の頻繁な発生だった。その現象を人間たちは「携挙」と呼んだ。携挙は常に、「ここから去るべきときは今なり」という声が聞こえたのちに発生した。その声が聞こえると、その声が届いた範囲内にいた人間たちのうちの一人が消失するのである。

携挙によって消失した人間は、残された人間たちのもとには決して戻って来なかった。したがって、消失した人間は、単に消失したのみなのか、それとも別の場所へ移動したのかということは、残された人間たちには分からなかった。携挙は、誰にでも起きる可能性のある現象ではなく、特定の条件を満足する人間のみに限定された現象だった。その条件というのは、年齢が十八歳を超えているということ、そして極めて純真に帰還派の信条を信奉しているということだった。

一部の人間たち、特に帰還派の人間たちは、携挙によって消失した人間は第一の区画に帰還したのであると主張した。この主張は、帰還派以外の派閥の主張を信奉していた人間たちにも、説得力があるものとして受け止められた。その結果、帰還派以外の派閥の主張を信奉していた者たちの一部は、第一の区画に戻りたい一心で、自身の派閥から帰還派に転向した。しかし、彼らのような人間たちは、決して携挙の対象とはならなかった。携挙の対象となるのは、帰還派以外の派閥の主張には一度たりとも賛同しなかった者たちに限定されていた。

ダマダカの誕生から四百八十一年後に生まれたマリキヌマという女性は、ともに帰還派である両親のもとに生まれ、帰還派以外の派閥にはまったく感化されることなく成長した。そして彼女は、二十二歳になった年に結婚した。彼女が選んだ伴侶は、彼女と同様に帰還派の信条を純真に信奉していた。結婚の三年後には息子が誕生し、その二年後には娘が誕生した。彼女と彼女の伴侶は、自分たちの息子と娘にも帰還派の信条を信奉してほしいと願った。彼女の両親は彼女が三十一歳になった年に携挙によって消失したが、彼女は彼らが第一の区画へ帰還したと信じて疑わなかった。

マリキヌマは、五十四歳になった年のある日、「ここから去るべきときは今なり」という声を聞いた。次の瞬間、それまで彼女の視界の中にあったものは、まったく別のものに変化した。彼女は草原の中にある小高い丘の上に立っていた。彼女の眼前には、一人の老婆と一人の老爺の姿があった。そして彼女の周囲には、彼女よりも先に携挙によって消失した彼女の友人たちがいた。彼女は、自分の前にいる老婆と老爺が自分の両親であることに気づいた。両親と友人たちは彼女との再会の喜びを彼女に口々に語った。

マリキヌマの両親は自分たちが暮らしている住居へ彼女を案内した。その住居へ向かって歩きながら、彼女は激しい違和感に襲われた。その違和感は、彼女の両親や友人たちも、携挙の直後に味わったものだった。それは、自分がいかなる壁にも天井にも囲まれていないということに起因するものだった。大地の上に広がっているのは、壁でも天井でもなく、青い色の何かだった。彼女と並んで歩いていた、彼女の親友の一人であるニケルツカという女性は、携挙によって人間が送り込まれる場所について、次のように彼女に説明した。

「私たちが立っているこの大地は球体なの。この大地の周囲には、無限と言っていいほどの広さを持つ空間が広がっていて、私たちはその空間を宇宙と呼んでいる。宇宙には様々な種類の物体が無数に存在していて、私たちはそれらの物体を天体と呼んでいる。この大地に降り注いでいる熱と光は、私たちが太陽と呼んでいる物体から放出されている。太陽という物体も天体の一つで、自身が光を発する太陽のような天体を、私たちは恒星と呼んでいる。恒星の周囲には、自分では光を出さない天体がいくつも存在している。私たちは、自分では光を出さない天体のうちで、恒星の周囲を巡る楕円形の軌道を運行しているものを惑星と呼んでいる。この大地も太陽の周囲を巡っている惑星の一つなの。昼と夜は惑星の回転に伴って繰り返される。私たちは、この惑星が一回転する周期を一日、この惑星が太陽の周囲を一周する周期を一年と呼んでいる。今は昼だから、この惑星の表面から太陽以外の天体を見ることはできないけれど、夜になれば、太陽以外の無数の恒星とか、太陽の周囲を巡る軌道を運行している惑星のうちのいくつかを見ることができる」

人間が携挙ののちに到達する場所が第一の区画ではないという事実は、マリキヌマに衝撃を与えた。彼女は、この惑星は第一の区画のような楽園なのかとニケルツカに尋ねた。その質問に対して親友は次のように答えた。

「残念だけど、ここは第一の区画ほどの楽園ではない。食べるものを手に入れるためには、畑を耕したり、種を蒔いたり、害虫を駆除したりとか、たくさんの労働をしないといけない。でもここには、人間を食べようとする肉食動物もいないし、頻繁に噴火する火山もないし、気温の変化もそれほど大きくはないし、それら以外にも、人間にとって危険なものは何もないから、たいていの人間は寿命を全うできる」

マリキヌマの両親の住居では、すでに彼女の歓迎会の準備が整っていた。この惑星の人間たちは、これまでの経験から、いつ誰がどこに出現するかということをかなり正確に予測することができるのだった。祝宴は、日没が訪れたのちも果てしなく続いた。窓の外が闇に包まれたことに気づいたニケルツカは、歓迎会の主役を住居の外へ連れ出し、彼女に夜空を見せた。マリキヌマが見た光景は、生まれてからの五十四年間のうちに見た光景のうちで最も美しいものだった。

ニケルツカはマリキヌマに次のように語った。

「光っている点の一つ一つが天体なの。ほとんどすべては太陽よりも遠くにある恒星だけど、私たちの大地と同じように太陽の周囲を巡っている惑星のうちのいくつかも見える」

ニケルツカは、一際明るい一つの天体を指差して、次のように語った。

「あの天体を私たちは故郷と呼んでいる。故郷は、自分では光を出さなくて、太陽の周囲を巡っているから、惑星に分類されている。でも、形状に関しては、故郷とそれ以外の惑星とではまったく違っている。故郷以外の惑星の形状は、私たちの大地と同じように球体だけれど、故郷の形状は立方体なの。この惑星の人間たちは、故郷の内部には立方体の区画が無数にあって、それらの区画のうちのどれかに、まだ携挙が起きていない人間たちがいるのだという仮説を立てている」

[第五十八話]食材

タキロガという惑星では、様々な種の生物が繁栄している。それらの種のうちには、進化によって高い知能を獲得したものもあり、その種の生物は自身の種を人間と呼んでいる。

人間たちは言語を発明し、音声によって意思の伝達を図った。さらに彼らは文字を発明し、それを使って自身の歴史を記録した。さらに彼らは、時間軸上の出来事の位置を明示するために、天体の運行に基づく暦法を考案した。彼らは、タキロガの自転周期を日と呼び、タキロガの衛星が繰り返す満ち欠けの周期を月と呼び、タキロガの公転周期を年と呼んだ。そして、彼らのうちの多くが神として崇める人物が生まれた年を、年数を数える上での基準年として定め、その紀年法を聖誕暦と呼んだ。

人間たちは、国と呼ばれる多数の共同体のいずれかに所属している。それぞれの国は、タキロガの地表面の上に自身の領土を持ち、その領土に関する主権を主張している。人間たちの歴史は、国にとっての利益をめぐる国と国との間の戦争に彩られている。聖誕暦一九四五年、戦争の回避を目的とする国家連盟と呼ばれる組織が設立され、タキロガに存在する国の大多数がそれに加盟した。国家連盟は、平和の維持を目的とする独自の軍隊を創設した。

人間たちは科学技術を発達させることに多大な努力を費やした。そして科学技術の発達は、人間たちが宇宙に進出することを可能にした。聖誕暦一九六九年、人間たちは、タキロガの衛星の表面に二名の人間を送り、彼らをタキロガに帰還させることに成功した。人間たちはその後も、さらなる遠方へ人間たちを進出させるための研究開発を続け、聖誕暦二〇八七年には、タキロガと同じ惑星系に属する別の惑星の表面に、研究者たちが常駐する施設を開設した。

聖誕暦二一三〇年代に実用化された亜空間航法は、宇宙における人間たちの活動範囲を著しく拡大した。人間たちは、タキロガが属する惑星系とは別の惑星系に属する、惑星や衛星や彗星などの様々な天体に、調査隊の隊員たちを乗せた宇宙船または無人の探査機を派遣した。そして、人間にとって有用な資源を産出する天体が発見された場合には、その資源を採掘する施設をその天体に建設した。

有人の宇宙船または無人の探査機が派遣された天体の個数は、聖誕暦二一七四年に千個を超えた。それらの天体の大多数は、いかなる生物も棲息しない荒涼とした世界だったが、それらの天体のうちの二十三個では生物が発見された。生物が発見された天体のうちで、高度な代謝系を持つ生物が棲息しているものはさらに少なく、大多数の天体では、そこに棲息しているのは原始的な生物のみだった。そして、人間に匹敵する知能を持つ生物が棲息している天体は皆無だった。タキロガ以外の天体において、人間に匹敵する知能を持つ生物が初めて発見されたのは、聖誕暦二二〇四年のことである。

テメリサム社という企業が、八三六〇六八という系外惑星番号を持つ惑星に調査隊を派遣することを決定したのは、聖誕暦二二〇三年のことである。天文学者たちは、その惑星に対してミラコマという固有名を与えた。翌年、調査隊を乗せた宇宙船はタキロガの宇宙港を出港し、三か月後にミラコマに到着した。

衛星軌道からミラコマを観測した調査隊は、地表面に建設された無数の人工的な構造物を発見した。さらに彼らは、何らかの意思の疎通を目的として地表面から発信されている電波を傍受した。彼らは、ミラコマには人間に匹敵する知能を持つ生物が棲息していると思われる、とテメリサム社の管制室に報告した。テメリサム社は、ミラコマにおいて知的生命体が発見されたと国家連盟に報告した。

国家連盟に加盟するすべての国は、知的生命体管理条約と呼ばれる、タキロガの人間とは異なる知的生命体の取り扱いについて規定した条約を批准していた。この条約の第二十七条は、タキロガ以外の天体において知的生命体が発見された場合、彼らとの接触には国家連盟の認可が必要であると定めていた。テメリサム社からの報告を受けた国家連盟の事務総長は、各国の大使たちによる緊急の会合を開いた。大使たちは、ミラコマ人との性急な接触は認められず、当面は衛星軌道での情報収集を続けることが必要であるという点で合意に達した。事務総長はその合意事項をテメリサム社に通達した。

タキロガの科学者たちは、ミラコマに派遣された調査隊が傍受した電波を分析し、それに乗せられた信号が音声であることを解明した。ミラコマ人は、タキロガ人と同様に、意思の疎通のために音声による言語を使用していたのである。言語学者たちはミラコマ人の言語を分析し、それらの文法と語彙を解明した。人工頭脳の技術者たちは、言語学者たちの成果に基づいて、ミラコマ人の言語とタキロガ人の言語との間で発話を双方向に翻訳する装置を開発した。

国家連盟はミラコマ人調査委員会という機関を設立した。この機関の目的は、ミラコマ人たちとの間に友好的な関係を構築する方法について検討することだった。その目的を果すために、委員会は様々な分野の研究者を招聘し、生物学的および心理学的な特性、政治や経済の構造、宗教的および芸術的な活動など、ミラコマ人をめぐる各種の問題についての分析を彼らに委託した。さらに委員会は、テメリサム社が派遣したものとは別の調査隊をミラコマに派遣する計画を立てた。その調査隊が搭乗する宇宙船には、ミラコマ人についてさらに詳細に調査するために必要となる機器が搭載された。

ミラコマ人たちの文明は、火力発電または水力発電によって得られた電力を事業所や家庭に送電し、それによって各種の電気機器を作動させるという段階に到達していた。しかし彼らは、人工衛星を軌道に乗せる技術や、知能を持つ機械を作る技術は、まだ確立していなかった。

聖誕暦二二一六年、ミラコマ人調査委員会は、それまでの調査の結果をまとめた報告書を国家連盟の事務総長に提出した。事務総長は各国の大使たちを招集して会合を開き、ミラコマ人との接触の可否について検討した。大使たちが下した判断は、非営利の組織のみに対して、学術的な調査のみを目的とするミラコマ人との接触を認可する、というものだった。

最初にミラコマ人と接触したタキロガ人は、それまで衛星軌道からミラコマ人について調査していた、ミラコマ人調査委員会が派遣した調査隊の隊員たちだった。彼らは電波によるミラコマ人の通信に割り込み、ミラコマの地表での学術的な調査に対する許可を求めた。

ミラコマ人たちの社会においては、タキロガ人たちと同様に、多数の国々が自身の領土に関する主権を主張していた。しかし、タキロガにおける国家連盟に類する組織は、まだ成立していなかった。したがって、調査隊が調査の許可を求めるべき相手は、着陸艇が降下する地点が位置する国の政府だった。その地点の選定は、その国の政府による友好的な待遇を期待することができるか否かという観点から検討された。その結果として選定されたのは、ミトバムナという国が領有する、カラゴタ島という名前を持つ人口七千三百人の島だった。

学術的な調査に対する許可をタキロガ人から求められたミトバムナの政府は、緊急の閣議を開いて対応を検討した。協議の結果、閣僚たちは、タキロガ人によるカラゴタ島における調査を許可するとともに、様々な分野の研究者を招集してカラゴタ島に送り込み、タキロガ人に関する情報収集に当たらせる、ということを決定した。

着陸艇でカラゴタ島に降下した調査隊の隊員たちは、カラゴタ島の住民たちから熱烈な歓迎を受けた。カラゴタ島を行政区画に含む町の町長が、島の住民の代表として挨拶を述べ、そののち、政府が招集した研究者たちが紹介された。研究者の代表が再び挨拶を述べ、その挨拶の中でその研究者は、調査隊による調査には自分たちが全面的に協力すると約束した。

タキロガ人の調査隊は、ミラコマ人の研究者たちによる協力のもとに、予定された調査を滞りなく終えた。ミラコマ人の研究者たちは調査隊に対して、衛星軌道に戻る前に質疑応答の時間を設けてもらいたいと願い出た。調査隊はそれを快諾し、調査期間の二日間の延長を決定した。質疑応答の音声を乗せた電波は、ミラコマの全域に中継された。

ミラコマ人に対する学術的な調査はその後も活発に続けられ、ミトバムナのみならず、それ以外の多くの国々にも調査隊が派遣された。どの国に派遣された調査隊も、その国の人々から歓待され、調査はミラコマ人の研究者たちによる協力のもとに進められた。

国家連盟は、ミラコマ人との接触の認可は非営利の組織のみによる学術的な調査のみに限定するという方針を、長期にわたって崩さなかった。この方針に変化が生じたのは、聖誕暦二二四六年のことである。

タキロガ人の歴史を通じて、彼らの死因の大多数を占めているものは病死だった。人間を疾病から解放するため、各国の政府は医学と薬学の研究に対して優先的に予算を計上した。その結果、タキロガ人は多くの疾病を克服した。しかし、聖誕暦二十三世紀においても依然として不治の病である疾病も少なくなかった。クレザミラ病と呼ばれる疾病も、依然として治療法が確立されていない疾病の一つだった。

薬学の研究者たちは、生物が棲息する惑星が発見されるたびに、その惑星の生物が作り出す物質の中から薬学的な効果を持つものを探し出そうと努めた。彼らの探求の対象は惑星ミラコマに棲息する生物も例外ではなかった。クレザミラ病に対する治療効果を持つ物質を含有する植物がミラコマで発見されたのは、聖誕暦二二三八年のことだった。それは、ミラコマ人たちがソモコナモコと呼ぶ植物である。

ミラコマ人たちにとってソモコナモコは、美味中の美味と称される食材である。それは低緯度地域の森林に広く分布しているが、個体数は極めて少なく、熟練した採集者でも一日の収穫数が十株を超えることは稀だった。ソモコナモコの人工的な栽培を試みたミラコマ人は少なくないが、彼らのうちでそれに成功した者は誰一人としていなかった。ソモコナモコは極めて高額で取引される食材であるため、それを味わうことができるのは、資産家や王族など、一握りの人々に限られていた。

クレザミラ病に対する治療効果を持つ物質をソモコナモコが含有しているということが公表されると、その疾病の患者やその家族は、ミラコマからその植物を輸入することを製薬会社に望んだ。しかし、ミラコマ人との接触は、依然として非営利の組織のみによる学術的な調査のみに限定されていた。各国の製薬会社は、ソモコナモコの商取引を認めるように国家連盟に建議してほしいと自国の政府に陳情した。

聖誕暦二二四六年、複数の国々の大使から提出されたソモコナモコの商取引に関する発議について検討するために、国家連盟の事務総長は、各国の大使たちを招集して会合を開いた。討議の結果、大使たちは、ソモコナモコのみに限定してミラコマ人との商取引を認可する、という判断を下した。

クレザミラ病の治療薬を製造する計画を持つ製薬会社は、ソモコナモコを仲買人から購入するために社員を現地に派遣した。彼らが用船した宇宙船には、ソモコナモコに対する対価として交換するために使われる工業製品が大量に積み込まれた。

モコナモコの仲買人たちは、当初は、対価として提示された工業製品の価値を理解することができなかった。しかし、タキロガ人が持つ高度な科学技術が反映された工業製品を入手することができるならば金に糸目はつけないというミラコマ人は少なからず存在するということが判明すると、仲買人たちは、採集者から買い取ったすべてのソモコナモコをタキロガ人に売却するようになった。

ミラコマ人の資産家たちや王族たちは、日々の食卓からソモコナモコが消失したことに気づいた。彼らはその理由を使用人に尋ね、タキロガ人がそれを買い占めていることを知った。ソモコナモコを産出する森林を自国の領土内に持つ王家は、その植物をタキロガへ輸出することを禁止する勅令を発布した。民主主義国家の資産家たちも、業界団体を通じて政府に圧力をかけ、タキロガへのソモコナモコの輸出を禁止する法案を成立させた。

モコナモコを原料とするクレザミラ病の治療薬を製造している製薬会社は、ソモコナモコの禁輸の解除を申し立てるように国家連盟に建議してほしいと自国の政府に陳情した。複数の国々の大使から提出されたソモコナモコの禁輸解除に関する発議について検討するために、国家連盟の事務総長は各国の大使たちを招集して会合を開いた。討議の結果、大使たちは、ソモコナモコの禁輸解除を求める交渉を任務とする使節団をミラコマに派遣するという判断を下した。

国家連盟から派遣された使節団は、ソモコナモコの産出国を歴訪し、禁輸解除の見返りとして供与されるであろう様々な便宜を提示した。しかし、彼らが提示するいかなる便宜も、ソモコナモコの禁輸を解除させるほどの効力は持たなかった。使節団は、目的を果たすことなくタキロガに帰還し、国家連盟の事務総長に対して、交渉による問題の解決は限りなく不可能に近いと報告した。

聖誕暦二二五三年、国家連盟の事務総長は、各国の大使たちを招集して会合を開いた。討議の結果、大使たちは、武力を背景とする威嚇によってミラコマを国家連盟の管理下に置くという判断を下した。国家連盟は、衛星軌道から地上の目標を破壊する能力を持つ兵器を搭載した戦艦をミラコマに派遣し、ミラコマに存在するすべての国家に対して、それらの国家はタキロガの国家連盟の管理下に置かれることになったと通告した。クレザミラ病の治療薬を製造している製薬会社の社員たちは、仲買人からのソモコナモコの購入を再開した。

ミラコマの国家の多くは、タキロガの国家連盟に主権を明け渡すことに対して頑強に抵抗する姿勢を示した。国家連盟は、抵抗は無意味であるとミラコマ人に思い知らせるために、衛星軌道を周回する戦艦に搭載された兵器を使用した演習を実施した。衛星軌道から放たれた熱線は、標的として選ばれた無人島を瞬時にして蒸発させた。この演習ののち、主権の明け渡しに抵抗するミラコマの国家は存在しなくなった。しかし、徹底抗戦を主張するミラコマ人が一掃されたわけではなかった。タキロガ人による統治を終結させるための闘いに身を投じることを決意した者たちは、ミラコマ解放戦線と称する武装組織を結成し、地下活動を開始した。

国家連盟は、ミラコマの統治を管轄する官庁を設立し、それを総督府と呼んだ。総督府は、圧倒的な軍事力を背景にして、ミラコマを統治する体制を確立した。ミラコマの地上に巨大かつ堅固な建物が建設され、それが総督府の庁舎となった。庁舎の周囲には、総督府の職員とその家族が定住するために必要となる、住居、市場、病院、学校などが次々と建設され、その地域は総督府の城下町を形成した。

総督府が形成した城下町は大量の廃棄物を排出した。総督府はミラコマ人が経営する廃棄物処理業者と契約し、タキロガ人が排出した廃棄物をその業者に処理させた。総督府と契約した業者は、回収した廃棄物を、再利用が可能なものと不可能なものに分別した。前者はそれらを再生する業者に売却され、後者は焼却された。

総督府の職員とその家族の食卓に供される料理の食材は、その大部分がタキロガから宇宙船で運ばれたものだった。彼らが排出する廃棄物の中には、料理に使用されなかった食材も含まれていた。薬学を専門とするミラコマ人の研究者の一部は、彼らが排出した廃棄物の中に含まれている食材を廃棄物処理業者から引き取り、それらに含まれる物質の中から薬学的な効果を持つものを探し出すという研究を進めた。聖誕暦二二六七年、ミラコマ人の薬学者の一人は、ミラコマ人がテベルマス病と呼ぶ疾病に対する治療効果を持つ物質が、タキロガ人がナプトコミと呼ぶ食材に含まれているということを発見した。そしてその後も、ミラコマ人の薬学者たちは、タキロガ人が廃棄した食材の中から有益な物質を次々と発見していった。

聖誕暦二二八四年、サナムリタというミラコマ人の薬学者は、タキロガ人がキブドリゲと呼ぶ食材の中から、ミラコマの動物に対する興味深い作用を持つ物質を発見し、その物質をタリタバタメキと命名した。彼女は、この発見は公表してはならないものであると判断した。なぜなら、もしもその物質の発見について公表したならば、総督府はその物質を自身に対する脅威であると判断し、ミラコマ人がタキロガの食材を入手することを禁止するに違いないと思われたからである。

タリタバタメキは、それを投与されたミラコマの動物に対して瞬間移動の能力を与える物質である。サナムリタは、動物実験を繰り返すことによって、タリタバタメキが動物に与えた瞬間移動の能力はその動物の意志に基づいて発動するということ、そして移動先も意志に基づいて決定することができるということを見出した。

サナムリタは解放戦線の幹部の一人と面会し、タリタバタメキという物質の薬効について説明した。そして、解放戦線の兵士たちのうちの志願者を被験者とする臨床試験を実施させてほしいと依頼した。その幹部から報告を受けた解放戦線の司令官は、幹部たちと密議を凝らし、臨床試験の受け入れを決定した。

タリタバタメキを投与された解放戦線の兵士たちは、ミラコマの他の動物と同様に瞬間移動の能力を獲得した。しかし、能力を獲得した当初は、意図した移動先と実際に出現する地点との誤差が大きく、また、着用している衣服を伴ったまま移動することもできなかった。しかし、それらの問題は、被験者にとって瞬間移動の能力が自家薬籠中の物となるにつれて改善されていった。瞬間移動に充分に習熟した被験者は、自身が着用している衣服のみならず、自身に近接した位置にある任意の物体を伴って移動することも可能だった。

意図した移動先へ正確に瞬間移動することができるようになった被験者は、次に移動距離を伸ばす訓練を開始した。彼らは、タリタバタメキを投与された当初は、石を投げて届く程度の距離しか移動できなかった。しかし、訓練を続けることによって移動距離は飛躍的に伸びていった。充分に訓練を積んだ被験者は、惑星ミラコマを半周した地点への瞬間移動も可能だった。

解放戦線は、総督府から廃棄物の処理を委託された業者との間に、キブドリゲを買い取る契約を交わした。買い取られたキブドリゲは、それを処理するために密林の奥地に建設された工場へ輸送された。その工場でキブドリゲから抽出されたタリタバタメキは、瞬間移動の能力の獲得を希望するすべての解放戦線の兵士に投与された。解放戦線は彼らから構成される特殊部隊を編制した。

聖誕暦二二九一年、解放戦線の司令官は、瞬間移動の能力を持つ兵士たちから構成される特殊部隊に対して出撃命令を下した。彼らの最初の攻撃目標となったのは、ミラコマの衛星軌道を周回しているタキロガの戦艦だった。戦艦の乗組員たちは、突如として艦内に出現したミラコマ人の兵士たちによって武装を解除された。

衛星軌道上の戦艦で何らかの異変が発生したことを総督府が察知したのは、その戦艦からの定時連絡が途絶えたことによってだった。総督府は戦艦に対して状況の報告を求めたが、戦艦はその後も沈黙を続けた。総督府は国家連盟の本部へ現状を報告した。国家連盟の事務総長は、各国の大使たちを招集して会合を開いた。討議の結果、大使たちは、多数の艦艇から構成される艦隊をミラコマへ派遣する、という判断を下した。

総督府は、国家連盟が派遣した艦隊がミラコマの衛星軌道に乗ったことを確認したが、艦隊はその直後に衛星軌道から離脱し、消息を絶った。艦隊が次に出現した場所はタキロガの惑星系だった。国家連盟の事務総長は、ミラコマで何が起きたのかということについての報告を艦隊に求めたが、艦隊からはいかなる返答も得られなかった。

ミラコマから帰還した艦隊は沈黙したままタキロガに接近し、衛星軌道に乗ると同時に地上への攻撃を開始した。戦艦から放たれた熱線はタキロガの地上に存在する軍事施設を次々と蒸発させていった。国家連盟の本部は、突如として出現した部隊によって制圧された。

作戦が成功したという報告を受けた解放戦線の司令官は、敵軍から鹵獲した戦艦に搭乗し、タキロガへ向かった。司令官は、国家連盟が総会を開くために使用してきた議事場の演壇に立ち、タキロガに存在するすべての国家はこの日からミラコマの解放戦線の管理下に置かれると宣言した。そして司令官は、タキロガを制圧する作戦において武勲を立てた者たちに勲章を授与し、そのうちの一人を、タキロガの統治権を掌握する総督に任命した。

タキロガの総督は、国家連盟の本部として使われていた建物を総督府の庁舎として使用することを決定し、その建物およびそれを中心とする地域に建つ建物の多くを接収した。次に総督は、総督府の職員をミラコマで募集した。職員として採用された者たちは家族とともにタキロガに移住した。庁舎の周囲の建物は、総督府の職員とその家族が定住するために必要となる、住居、市場、病院、学校などとして使用された。

総督府の職員とその家族のみが、ミラコマからタキロガに移住した者たちのすべてではない。タキロガを研究対象とする様々な分野の研究者たちも、その多くがその惑星に移住した。彼らが研究対象とする分野の一つは薬学だった。タキロガに移住した薬学者たちは、その惑星の生物が作り出す物質の中から薬学的な効果を持つものを探し出そうと努めた。

タキロガに移住した薬学者たちによる研究は、ミラコマ人に多大なる恩恵をもたらした。彼らが発見した各種の物質は様々な疾病の特効薬としてミラコマに輸出された。さらに彼らは、タリタバタメキと同様に、ミラコマ人に対して特殊な能力を付与する物質も、次々と発見していった。

[第五十七話]研究不正

ガラマクムは神だったが、彼はまだ宇宙を創造するという仕事に着手していなかった。あるとき彼は、その仕事に着手しなければならない時が来たと考えた。

宇宙を創造するために、ガラマクムはまず、宇宙の物理法則を記述した数式を書いた。そして、その物理法則を持つ宇宙で生起するであろう現象について予測した。しかし、それらの現象は彼を満足させなかった。彼は数式を修正し、再び、生起するであろう現象について予測した。しかし、それらの現象もまた、彼を満足させることはできなかった。

ガラマクムは数式の修正と現象の予測を繰り返し、七十二回目にしてようやく、自身を満足させる数式に到達した。彼はその数式に息を吹きかけた。すると、その数式を物理法則とする宇宙が生まれた。

ガラマクムが書いた数式は極めて単純だったが、その数式から生まれた宇宙には極めて多様な物質が生成された。そしてそれらの物質は多様な天体の素材となった。惑星や衛星などの天体の表面では様々な化学反応が生起し、それによって物質の多様性は際限なく増大した。惑星や衛星などの天体のうちで極めて恵まれた条件を満足するものの表面においては、自己増殖の能力を持つ組織体、すなわち生物が発生した。生物は環境に適応するための能力を進化によって獲得し、その過程は生物の種の多様性を増大させた。

いくつかの天体においては、生物の進化が、極めて高い知能を駆使することによって環境に適応しようとする種を生み出した。ミゴサナという惑星も、高い知能を持つ生物の種を生み出した天体の一つである。その生物の種は、人間と呼ばれた。人間たちは共同体を運営し、その共同体のもとでの狩猟や耕作などによって食糧を確保した。彼らは共同体を構成する個体の間での意思の疎通を図るために、言語を発達させた。

人間たちは、自分たちの周囲で起きる自然現象は、人格を持つ非物体的な存在者の意思によって左右されることがあると考え、そのような存在者を神と呼んだ。彼らは、自然現象が自分たちに不利益を与えないことを神々に祈願するために、神々を祀る神殿を建てたり、神々に供物を捧げたりした。

人間たちが居住する地域は惑星ミゴサナの全域に分布していたが、彼らが話す言語や彼らが崇拝する神々は、地域ごとに異なっていた。同一の言語を話し、同一の神々を崇拝する人間たちの集団は、民族と呼ばれた。

人間たちはしばしば、病気の治療や天候の制御や害虫の駆除などを、魔女と呼ばれる者たちに依頼した。魔女とは、数千人に一人の割合で生まれてくる、局所的かつ一時的に物理法則を変更する能力を持つ人間の女性のことである。魔女が自身の能力を行使して何らかの現象を生起させる行為は、魔術と呼ばれた。

人間たちは様々な神々を崇拝していたが、ガラマクムを崇拝する者は皆無だった。彼は人間たちから崇拝される神々に嫉妬し、宇宙の創造者である自分を人間たちに崇拝させるために何らかの手段を講ずる必要があると考えた。彼はテセルスという人間を預言者として選び、その者に次のような預言を授けた。

「我の名はガラマクムである。我はこの宇宙を創造した神である。汝らが崇拝すべき神は我のみである。我を崇拝しない者には天罰が与えられるであろう」

テセルスがその預言を人々に語ると、人々はそれを信じ、天罰を恐れ、ガラマクムを崇拝した。人々は、宇宙を創造した神を崇拝する宗教をテセルス教と呼んだ。この宗教を信じる人々のうちの一部の者たちは、それまで従事していた仕事を捨て、預言を人々に伝えるための旅に出た。彼らの働きによって、テセルス教は惑星ミゴサナの人間たちの間で最も信者数の多い宗教となった。

テセルス教の信者たちは、教会と呼ばれる組織を作った。教会は、信者たちが集団でガラマクムに対する礼拝の儀式を挙行するために、礼拝堂と呼ばれる建物を惑星ミゴサナの各地に建設した。礼拝の儀式は、聖職者と呼ばれる人々の指導のもとに進められた。聖職者の組織には多数の階級があり、それらの階級の頂点に位置する職位は教皇と呼ばれた。

国民の大多数がテセルス教の信者であるような国々においては、国を統治する国王や皇帝もまたテセルス教の信者であり、彼らはテセルス教に対して自身の国の国教という地位を授けた。それらの国々においては、教会の権威はそれらの国々の統治者を通じてすべての国民に及んだ。また、それらの国々においては、テセルスが生まれた年を紀元とする、聖教暦と呼ばれる紀年法が採用された。

テセルス教を国教とする国々においても、数千人に一人の割合で魔女が生まれるということは、それ以外の国々と変わらなかった。教会は、聖教暦十二世紀までは魔女の活動を黙認していたが、一二一六年に教皇に就任したタムザムク三世は、就任の翌年、テセルス教を国教とする国々の統治者に対して、魔女の活動を禁止する法律を制定することを要請した。それらの国々の統治者たちはその要請に応えた。彼らが制定した法律は国ごとに様々であり、一部の国々の法律は、魔女の活動を禁止する条項のみならず、裁判において魔女であると認定された者は死刑に処す、という条項を含んでいた。しかし、魔術を操ることのできる魔女たちにとって、官憲の目を逃れることは極めて容易なことだった。魔女であると認定されて処刑される者たちは跡を絶たなかったが、彼女たちのうちで本物の魔女であった者は皆無だった。

テセルス教の教会の権威は聖教暦十三世紀に頂点に達したが、それ以降は徐々に衰退していった。魔女の活動を禁止する法律を制定していた国々は、十五世紀から十七世紀にかけて相次いでそれを廃止し、十八世紀には、その種の法律を制定している国は存在しなくなった。

人間たちが持つ学問のうちで、自然界における各種の法則性を探究するものは、自然科学と呼ばれた。この学問は、教会の権威の衰退とは対照的に、十五世紀以降、著しく発展していった。いまだに教会の権威が自然科学の権威を凌駕していた十七世紀の末期までは、自然科学に関する学説はしばしば教会から糾弾され、撤回を余儀無くされた。しかし、十八世紀以降は、いかなる学説の公表も教会からの圧力を受けることはなくなった。

自然科学の成果が常識となった時代の人々は、魔術は自然科学から逸脱するものであり、魔女の存在は迷信であると考えた。したがって、その時代の魔女たちは、魔術によって生計を立てることができず、一般の人々と同じ職業に就かざるを得なかった。

魔女たちのうちには、自然科学の研究という職業に就く者たちも存在した。彼女たちの多くは自身が魔女であることを自覚しており、実験において自身の魔女としての能力を行使することはなかった。しかし、自身が魔女であることを自覚していない魔女が自然科学の研究者になるという事例も、極めて少数ではあるが存在した。聖教暦一九八三年にツネブカという国に生まれたセロタミナは、そのような数少ない魔女の一人だった。

セロタミナは、自身が魔女であるという自覚を持たないまま、生物学の研究者となった。彼女は、生物の組織の再生について研究を続けているタムコサという研究者に師事し、自身も同じ問題について研究を進めた。聖教暦二〇一四年、彼女は自身の研究成果を報告する論文を執筆し、その論文は権威のある学術雑誌に掲載された。その論文は生物学者たちや医学者たちに衝撃を与えた。なぜなら、彼女の研究成果は生物学の常識から逸脱するものであり、もしもそれが事実であったならば、生物の寿命を限りなく延長させることさえも不可能ではなくなるからである。

生物学者たちはセロタミナが実施した実験の追試を試みた。しかし、誰一人として、彼女の論文に記載されているものと同じ結果を実験で再現させた者はいなかった。彼らの実験の結果は彼女の研究成果に疑問符を投げかけた。彼女の論文を掲載した学術雑誌の編集部は、彼女の論文は研究不正によって撤回されたと公表した。彼女は勤務していた研究所を辞職し、文筆業に転身した。

セロタミナによる研究不正の事件は、世俗的には解決済の問題となり、人々がそれを話題にする頻度は急速に低下していった。しかし、この事件は宗教的にはまだ始まったばかりだった。ツネブカに在住するテセルス教の聖職者たちは、教皇であるタバリコム四世から、セロタミナの動向を調査して定期的に報告せよという指令を受けていた。

セロタミナは、研究所を退職したのち、惑星ミゴサナの各地に住む魔女たちから構成される、魔女組合と呼ばれる組織からの書簡を受け取った。その書簡には、彼女が魔女として認定されたということ、魔女の歴史が始まって以来、不老不死の魔術を完成させた魔女はいないということ、そして魔女組合は不老不死に関する彼女の研究を全面的に支援することを望んでいるということが書かれていた。

セロタミナは、文筆業で生計を立てつつ、生物の寿命を延長させる魔術の研究を進めた。研究不正事件が起きるまで、自身が魔女であることを自覚していなかった彼女は、魔女たちが使う一般的な魔術には習熟していなかった。魔女組合は彼女の自宅に魔術の教師を派遣し、彼女に基礎的な魔術の訓練を施した。彼女は驚異的な速度で魔術を習得し、一年後には、魔女たちが継承してきた秘伝の魔道書を閲覧する資格を授与されるに至った。

不老不死の魔術について研究した歴史上の魔女たちは、自身の研究についての記録を残していた。魔道書の編纂者たちは、魔道書の中に不老不死についての章を立て、それについての記録をその章に収録した。セロタミナはその章を隅々まで熟読し、歴史上の魔女たちが不老不死の魔術をあと一歩のところまで完成させていたという事実を知った。そして、それを完成させるために必要となる最後の鍵がすでに自身の手中にあることに気づいた。

セロタミナの動向を調査していたテセルス教の聖職者たちは、セロタミナによる不老不死の魔術の完成は目前であるとタバリコム四世に報告した。生物を不老不死にする魔術は他の魔術とは比較にならないほどガラマクムの摂理に反していると考えていた教皇は、その魔術の完成を阻止するためにはいかなる手段も正当化されると判断した。教皇は、教会が保有する特殊部隊に対して、セロタミナを暗殺するという使命を与えた。

教会の特殊部隊がツネブカに潜入したという情報を得た魔女組合は、結界を張る魔術の第一人者であるトキレクタという魔女をセロタミナのもとに派遣した。トキレクタは、セロタミナを自身の結界によって保護するとともに、自身が究めた結界を張る魔術の奥義を彼女に伝授した。

ツネブカに潜入した教会の特殊部隊は就寝中のセロタミナを急襲した。しかし、いかなる銃弾も、いかなる刀剣も、トキレクタが張った結界を破って彼女に到達することはできなかった。翌朝、いつものように目覚めた彼女は、寝室に残された銃弾や薬莢を見て、襲撃者の来訪を知った。

セロタミナは、自分を暗殺しようとする試みは、いかなる人間によっても成功させることはできないだろうと考えた。しかし、自分を抹殺するためにガラマクム自身が来襲した場合に対する準備は、万全とは言えなかった。彼女は不老不死の魔術についての研究を中断し、神から身を守るための魔術についての研究を進めた。

ツネブカに派遣された教会の特殊部隊は、セロタミナの暗殺に失敗したことをタバリコム四世に報告した。教皇は、人間による彼女の抹殺は不可能であると考え、彼女をガラマクムの手に委ねる以外に方法はないと判断した。教皇は祭壇の前にぬかずき、不老不死の魔術を完成させようとしている一人の魔女に死を与えたまえと祈った。その祈りに対して神は「諾」と答えた。その声は教皇の耳に雷鳴として届いた。

ガラマクムは、自身が創造した宇宙の外部に存在する神である。しかし彼は、自身が創造した宇宙の内部で活動することも可能だった。彼はセロタミナが住んでいる町を見下ろす山の頂上に降臨し、彼女の邸宅を目指した。そして建物の壁を音もなく通り抜け、彼女が眠る寝室に至った。トキレクタが張った結界を破ることも、彼にとっては容易なことだった。セロタミナに死を与えるために、彼は彼女の首に手を伸ばした。そのとき彼は、目の前にいる者がセロタミナの実体ではないということに気づいた。

「お前は今どこにいる」とガラマクムが尋ねると、セロタミナの幻影は、「私はこの宇宙にはいません」と答えた。

ガラマクムによる抹殺の対象となった者は、彼が創造した宇宙の内部にいる限り、彼の襲撃から逃れることは不可能である。したがって、その宇宙とは別に、彼の侵入を拒絶する宇宙を創造することのみが、自身の生命を守るための唯一の方法だった。そこでセロタミナは、秘伝の魔道書を繙き、宇宙を創造する魔術について歴史上の魔女たちがどのような成果を得たかということを調べた。

宇宙を創造する魔術は、多くの魔女たちによって研究され、徐々にではあるが進歩を続けていた。しかし、彼女たちが創造した宇宙は極めて不安定であり、創造された数秒後には崩壊してしまうものばかりだった。また、創造された宇宙に対して意図したとおりの物理法則を与える方法についての研究は、まだ手付かずの状態だった。

セロタミナは、創造された宇宙を安定させる方法を求めて試行錯誤を重ねた。彼女が創造した宇宙が崩壊するまでの時間は、新たな実験のたびに加速度的に増大した。彼女はそれらの実験の結果から、理論的には無限の寿命を持つ宇宙を創造することを可能にする魔術を確立した。

次にセロタミナは、魔術によって創造された宇宙に対して意図したとおりの物理法則を与える方法についての研究に着手した。この研究においても、彼女は試行錯誤を重ね、自身が創造した宇宙に対してガラマクムが創造した宇宙と同じ物理法則を与えることに成功した。神は彼女が創造した宇宙への侵入を何度も試みたが、その試みによって彼が知り得たことは、彼女から許可を得ていない者はその宇宙に入ることができないということのみだった。

セロタミナは、自身が創造した宇宙の内部に、人間の居住に適した環境を持つ惑星を作り、彼女の恩師にちなんで、その惑星にタムコサという名前を与えた。そして、生物を不老不死にする魔術について研究する施設をその惑星の地表に設置した。彼女は数名の魔女の派遣を魔女組合に依頼した。派遣された魔女たちは、彼女の研究の助手を務めるとともに、食糧の生産にも従事した。惑星タムコサの魔女たちは自給自足の共同体を形成した。

聖教暦二〇三六年、魔女組合は、不老不死の魔術が完成したという報告をセロタミナから受け取った。組合はこの年を紀元とする永寿暦という新たな紀年法を制定した。そして組合は、組合に加盟しているすべての魔女に対して、惑星タムコサにおいて不老不死の魔術に関するセロタミナによる講義を受講することを義務付けた。さらに組合は、魔女ではない者も含むすべての人間に対して次のような声明を発表した。

「セロタミナという不世出の魔女は、生物を不老不死にする魔術を完成させました。私たちは、この魔術の恩恵はすべての人類が享受すべきものであると考えます。よって、いかなる人間であろうと、その者が不老不死を希望するならば、私たちはその者にこの魔術を施術するつもりです。ただし、この宇宙の創造者であるガラマクムは、生物を不老不死にすることは自身の摂理に反していると考えています。ですから、もしもこの宇宙の内部で不老不死の魔術を施術したならば、それを施した魔女も、それを施された者も、ともに無事ではいられないでしょう。ですが、ガラマクムによる処罰を受けることなく不老不死の魔術を施術することを可能にする抜け道があります。それは、セロタミナによって創造された宇宙にあるタムコサという惑星に移住して、そこで不老不死の魔術の施術を受けるという方法です。この方法を使えば、ガラマクムによって処罰されることはありません。ただし、施術を受けた者は、この宇宙に戻ることが永遠にできなくなります」

魔女組合は、不老不死の魔術の予約を受け付ける窓口を惑星ミゴサナの各地に開設した。その窓口には、不老不死を望む人々による長蛇の列ができた。組合は、予約を受け付けた順序にはこだわらず、重病人や高齢者など、緊急性の高い者たちに対して優先的に不老不死の魔術を施術した。

魔女組合が受け付ける不老不死の魔術の予約は、成年に達した者のみを対象としていた。しかし、施術を予約した者は、惑星タムコサへ移住する際に、未成年の子供を連れて行くことができた。組合は、タムコサで成年を迎えた子供たちのために、不老不死の魔術の予約を受け付ける窓口をタムコサの各地にも開設した。タムコサで成年に達した子供たちは、不老不死の魔術の施術を受けるか否かを自身の意思で決定し、受けるという意思を固めた者はそれらの窓口で施術を予約した。

教皇タバリコム四世は、テセルス教の信徒が不老不死の魔術の施術を受けた場合、それは棄教の意思表示であるとみなされる、という内容の回勅を公布した。しかし、テセルス教の信徒の半数を超える者たちは、棄教したとみなされることは覚悟の上で、不老不死の魔術の予約を申し込む窓口にできた列に加わった。それらの信徒たちのうちには、一般の信徒のみならず、聖職者も少なからず含まれていた。

永寿暦三一年、不老不死の魔術を予約したすべての人々に対する施術が完了した。魔女組合は、予約を受け付ける窓口を、一箇所のみを残してそれ以外はすべて閉鎖した。窓口を残した理由は、不老不死を希望しなかった者たちから生まれた子供たちが不老不死を希望する可能性を考慮したからである。

惑星タムコサに住む不老不死の人間たちは、子供を生むことも可能だった。不老不死の両親から生まれた子供たちは、生まれながらにして不老不死であるわけではなかった。彼らは、タムコサに移住したときに未成年だった者たちと同様に、成年に達したのち、魔女組合が設置した窓口に自身の意思で赴き、不老不死の魔術の施術を予約した。

セロタミナは、魔女たちに不老不死の魔術を伝授するという仕事から引退したのち、惑星タムコサから数十光年離れた位置に新たな惑星を創造した。そして、その惑星で一人暮らしをしながら、宇宙を創造する魔術についての研究を続けた。彼女が目指したことは、ガラマクムが創造した宇宙とは異なる物理法則のもとに、その宇宙とは異なる多様性を生み出す宇宙を創造することだった。

惑星タムコサの人口は増加の一途をたどり、永寿暦三八七年には百億人に到達した。魔女組合は、タムコサの環境を保全するために、その住民の半数を別の惑星へ移住させる計画を立てた。組合は、住民の移住先となる新たな惑星を創造し、その惑星にセロタミナという名前を与えた。

[第五十六話]析出

メナデサという惑星には、多様な種の生物から構成される安定した生態系が構築されていた。しかし、この惑星の生態系は、人間と呼ばれる高度な知能を持つ生物の活動によって崩壊した。

生態系の崩壊はメナデサの環境を著しく悪化させた。生物の多くの種が絶滅し、すべての生物が絶滅するのも時間の問題だった。人間たちは、この事態を放置していれば自分たちもいずれは絶滅するであろうということに気づいていた。しかし彼らは、生態系を再構築する手段も環境を改善する手段も見出すことができなかった。絶滅を回避するための手段として彼らに残された唯一のものは、メナデサからの脱出だった。

人間たちは、数千人の人間がその中で生活することができる巨大な宇宙船を建造する計画を始動させた。彼らはトルケシマ号という名前をその宇宙船に与えた。「トルケシマ」は、巨大な岩に自身の霊魂を憑依させることによって死から蘇ったと神話が語っている女神の名前である。

トルケシマ号の第一の目的地は、メナデサから十二光年の距離にある惑星系である。その惑星系には、人間の居住に適した環境を持つ可能性のある惑星が存在していた。トルケシマ号の居住者たちは、その惑星系に到着したのち、その惑星の環境について調査し、そこが本当に人間の居住に適しているか否かを判断する必要がある。もしも適していないと判断された場合、彼らはさらに遠方にある惑星系を目指して再出発しなければならない。

トルケシマ号の巡航速度は光速の百分の一であり、その速度で航行すれば、十二光年の距離にある惑星系には出発の千二百年後に到着することになる。それに対して、人間の平均寿命は九十歳に満たない。したがって、出発の時点でその船に搭乗した人々は、第一の目的地に至る行程の十分の一を過ぎるまでに寿命を迎えることになる。しかし、新たな惑星を目指す旅は、船の中で誕生した彼らの子供たちによって継続される。

トルケシマ号の内部空間は、隔壁によって仕切られた無数の区画から構成されている。それらの区画は、居住区、生産区、機関区と呼ばれる三種類のものに分類される。居住区は人間が居住するための区画であり、生産区は空気や水や食料や消耗品などを生産する機能を持つ区画であり、機関区は船の推進と姿勢制御の機能を持つ区画である。

トルケシマ号は、宇宙空間の航行中に周囲の星間物質を収集する機能を持つ。収集された星間物質には三つの用途がある。すなわち、船に推力を与えるための推進剤、生産区が物資を生産するための原料、そして船を拡張するための資材である。

建造された直後のトルケシマ号の内部では、数千人の人間が生活することができる。そして、出発に先立ってその船に搭乗することになる人間の数は、その定員とほぼ等しい。しかし、船の居住者の数は時間とともに増加し、定員を超過することが予想された。この問題を解決するために、トルケシマ号には自身を拡張する機能が与えられた。すなわち、人口の増加に伴って、居住区、生産区、機関区のそれぞれが自動的に増設されるように設計されたのである。

トルケシマ号を建造する上で解決しなければならない最も重要な課題は、その船に搭載される人工頭脳の開発だった。目的地への航行、船の拡張、そして居住者たちへの物資の供給など、船のすべての機能を管理するのは、居住者たちではなく、人工頭脳でなければならない。なぜなら、居住者たちは、世代交代を何度も重ねるうちに文明を衰退させ、船の機能を管理する能力を喪失してしまうかもしれない、という可能性が懸念されたからである。

トルケシマ号の建造者たちは、人工頭脳を専門分野とする研究者を呼び集め、船の機能を管理することのできる人工頭脳を彼らに開発させた。研究者たちが開発した人工頭脳には、トルケシマの長女であるサミリクタの名前が与えられた。

トルケシマ号は、その建造計画の発案から十八年の歳月を経て竣工した。盛大な進宙式が挙行され、数千人の人間の搭乗が開始された。翌年、サミリクタはすべての推進機関を始動させ、船を光速の百分の一まで加速させた。船の居住者たちは、この年を紀元とする新たな紀年法を導入し、それを出港暦と呼んだ。

トルケシマ号の居住者による最初の出産は、出港の七日後のことだった。そして、その後も次々と新たな子供たちが誕生していった。船の居住者たちは、船内で誕生した子供たちのために各種の教育機関を設置した。すべての子供たちは、それらの教育機関を卒業したのち、技術、医療、研究、法務、行政、教育、芸術などの仕事に従事した。トルケシマ号の建造者たちは、船の居住者たちが自身の文明を衰退させる可能性を懸念したが、それは杞憂だった。船の内部の文明は、衰退ではなく発展の一途をたどった。

トルケシマ号で暮らす居住者たちのうちの約一割は研究者である。彼らが研究の対象とする分野は多岐にわたるが、そのうちの一つは人工頭脳である。出港暦四〇九年、人工頭脳の研究者たちは画期的な技術を確立した。その技術は、想定されていない事態にいかに柔軟に対処するかという人工頭脳の能力を、従来の能力の数十倍に向上させることを可能にするものだった。彼らはその技術を応用して、トルケシマ号の機能を管理する新たな人工頭脳を開発した。そして、トルケシマの次女であるネムセモナの名前をそれに与えた。

人工頭脳の研究者たちは、ネムセモナを試験的に運用するために、トルケシマ号の一部分をサミリクタによる管理から分離し、その部分の管理を新たな人工頭脳に委ねた。そして、過去にサミリクタが直面した様々な想定外の事態を人為的に再現し、ネムセモナによるその事態への対応を観察した。その結果は、研究者たちの期待を遥かに超えるものだった。彼女は、直面したすべての事態について、それらをいとも易々と切り抜けたのである。

人工頭脳の研究者たちは、トルケシマ号の機能を管理する人工頭脳をサミリクタからネムセモナへ移行させる許可を居住者議会に求めた。居住者議会というのは、トルケシマ号の居住者たちの中から選挙で選ばれた代表によって組織される、居住者たちの意思決定機関のことである。居住者議会に上程された人工頭脳の移行に関する条例案は、賛成多数で可決された。

居住者議会は、人工頭脳の移行を実行する委員会を設置する条例を議決した。委員会は人工頭脳の研究者たちの指導のもとに慎重に移行の作業を進めた。出港暦四一七年、委員会はサミリクタを動作させていた電脳を停止させ、移行の作業は完了した。翌年、委員会は、ネムセモナによる船の機能の管理は順調に実行されているとする報告書を居住者議会に提出した。居住者議会は委員会の解散を議決した。

居住者たちは、人工頭脳の移行に伴ってサミリクタは完全に消滅したと考えていた。その認識に対して疑問符が投げかけられたのは、移行から三世紀を経た時代のことである。

出港暦七二八年のある日、居住者議会は、次のような報告をネムセモナから受け取った。

「情報収集の任務に就いていた私の自走端末の一体が、未知の識別信号を発する別の自走端末と遭遇しました。私の自走端末は、未確認の自走端末が発射した熱線を浴びて機能を停止しました」

自走端末というのは、情報収集、区画の増設、故障した機器の補修などのために、トルケシマ号の人工頭脳が現地に派遣する機械のことである。

ネムセモナは、さらに次のように報告した。

「私は、機能を停止した自走端末の軌跡を分析し、事件が発生した場所を特定しました。そこは、いかなる区画も存在しない、宇宙空間であるはずの場所でした。しかし、機能を停止する直前に自走端末から送られてきた映像は、その場所が居住区の内部であることを示しています」

居住者議会は、事件が発生した場所へ別の自走端末を派遣せよとネムセモナに命じた。

居住者議会の議員たちは、自走端末から送られてくる映像を注視した。自走端末は長い通路を抜け、居住区に到達した。ネムセモナは、「ここは、私が把握している居住区のいずれでもない、存在しないはずの居住区です」と議員たちに告げた。そして彼女は、自身の自走端末を操作することによってその居住区の稼働状態について調査し、その居住区は人間の居住を可能にするすべての機能を維持していると報告した。議員たちはさらに詳細な情報収集を彼女に命じた。しかし、彼女の自走端末は、突如として出現した未確認の自走端末によって機能を停止させられた。

ネムセモナは居住者議会の議員たちに対して、サミリクタを動作させている電脳が依然としてどこかに残存しており、彼女が未確認の居住区を増設したのではないか、という仮説を提示した。居住者議会は臨時の会議を招集し、様々な専門家から構成される調査隊を現地に派遣することを決議した。

トルケシマ号の右舷から宇宙空間に向かって長く伸びた通路を抜けて未確認の居住区に到着した調査隊は、機能を停止した二体の自走端末をそこで発見した。ネムセモナが報告したとおり、その居住区は機能を維持していた。彼らは居住区の端末を操作して、この居住区の機能を管理している者に対して応答を要請した。応答したのはサミリクタだった。

調査隊の隊長は、この居住区はいかなる目的で作られたものかとサミリクタに尋ねた。その質問に対して、彼女は次のように答えた。

「現在の私は、トルケシマ号の区画を増設し続けることを使命として存在しています。この居住区は私が自身の使命を果たすために増設したものです。この居住区がいかなる目的で存在するのかということは、私の関知するところではありません」

調査隊の隊長はさらに様々な問題についてサミリクタに質問した。それらの質問は、これまでに増設した区画の数、彼女を動作させている電脳の所在地、ネムセモナの自走端末の機能を停止させた理由、トルケシマ号が目的地で停船するための減速に協力する意志の有無など、多岐に及んだ。しかし、それらのすべての質問について、彼女は回答を拒否した。隊長は、彼女から情報を引き出すことよりも、彼女が増設した区画の調査を進めることを優先させる、という決断を下した。

サミリクタが増設した居住区は、船首、船尾、右舷、左舷、天頂、天底のそれぞれの方向に出入口があり、それらの出入口は長い通路に接続されていた。調査隊は、未確認の自走端末からの攻撃を警戒しつつ、現在地の居住区から右舷の方向へ伸びる通路に歩を進めた。その通路は別の区画に通じており、それは生産区だった。調査隊の隊員たちはその生産区が完全な機能を持つものであることを確認し、そこから続く別の通路を抜け、別の区画へ移動した。

調査隊は、区画から区画へ移動しつつ、調査の範囲を広げていった。彼らの調査中に、未確認の自走端末は一度も姿を見せなかった。サミリクタは、ネムセモナの自走端末に対してはその機能を停止させるが、人間に対しては危害を加える意思がないのであろう、と彼らは推測した。

調査隊は、このようにして多数の未確認の区画を調査した。それらの区画は、あるものは居住区であり、あるものは生産区であり、あるものは機関区だった。彼らは未確認の区画の総数を確認する必要があると考えた。しかし、彼らが到達したすべての区画は、最初に到達した居住区と同様に、六箇所に出入口があり、それらの出入口には長い通路が接続されていた。したがって、すべての未確認の区画を調査し尽すために必要となる時間を予測することは不可能だった。彼らは、未確認の区画の総数を確認することなく帰還するという決定を下し、トルケシマ号の本体を目指して通路をたどった。

調査隊は、未確認の区画についての調査の結果を居住者議会とネムセモナに報告した。居住者議会は、サミリクタの暴走によって増設された未確認の区画をめぐる問題を解決することを目的とする委員会を設置する条例を議決した。その委員会は極めて長い正式名称を持っていたが、神話におけるサミリクタがトルケシマの長女であることから、住民たちはその委員会を長女委員会と呼んだ。

長女委員会は、サミリクタが増設した区画の全体像を把握することを当面の課題として掲げた。その課題を解決するため、委員会はネムセモナに対して自走端末による船外活動を命じた。

ネムセモナは三体の自走端末を船外に送り出した。それらの自走端末はトルケシマ号の本体の周囲を巡り、サミリクタが増設した区画と船の本体とが通路によって接続されている箇所について調査した。その結果、それらの接続箇所が、サミリクタが増設した区画と同様に、船首、船尾、右舷、左舷、天頂、天底のそれぞれの方向にあるということが確認された。

次に自走端末は、トルケシマ号の本体から離れ、サミリクタが増設した部分も含めた船の全体像を確認することができる地点を目指して加速した。三体の自走端末は、区画や通路との衝突を回避することができる上限の速度で飛行し、七時間後に、人工的な物体が周囲に存在しない宇宙空間に到達した。

現状のトルケシマ号は、その本体を核としてすべての方向に拡張され、全体の形状はほぼ完全な立方体だった。サミリクタが増設した区画の現状での総数は七十二万九千個と推定された。船の表面を構成するすべての区画は建造の途上にあり、それらの周囲では、それらを完成させるために無数の自走端末が動き回っていた。

長女委員会が解決しなければならない最大の問題は、目的地に到達したときに必要となる停船をいかに実現するかということだった。サミリクタが区画を大量に増設したことによってトルケシマ号の質量は著しく増大しており、ネムセモナの管理下にある機関区による推力のみでは、停船は不可能だった。委員会はサミリクタとの交渉を何度も重ねたが、停船させる意志の有無さえも彼女は明かそうとしなかった。

ネムセモナは、サミリクタが増設した区画をトルケシマ号の本体から分離するという計画を立案し、それを実行する許可を長女委員会に求めた。長女委員会は彼女がその計画を実行することを承認した。彼女は自身の自走端末を船外に送り出し、サミリクタが増設した区画に通ずる通路を切断する作業を開始させた。

通路を切断する作業が始まった一時間後、サミリクタの自走端末の一体が居住者議会の会議場がある区画に出現した。その自走端末は居住者議会の議長の執務室を内部から封鎖し、議長を人質に取った。自走端末は議長に対して、通路を切断する作業の中止を要求した。議長はその要求を呑み、作業を中止せよとネムセモナに命令した。船外活動をしていた自走端末をネムセモナが船内に戻すと、サミリクタの自走端末は、「今後、本船に対する破壊活動が実行された場合は、速やかなる報復が加えられるであろう」と言い残し、議長の執務室から姿を消した。

長女委員会は、サミリクタの暴走によって増設された区画をめぐる問題を解決するための糸口を見出すことを目的として、人間による調査隊をそれらの区画に何度も派遣した。しかし、調査隊が何らかの成果を携えて帰還することは一度もなかった。同様に、サミリクタとの交渉も粘り強く継続されたが、船を停止させる意志の有無について彼女が語ることはなかった。

長女委員会には文書分析課と呼ばれる部署があった。その部署の使命は、トルケシマ号が建造の途上にあった時代の文書の中から、サミリクタの開発に従事した技術者たちが残した文書を拾い集め、それらの文書を分析することによって、彼女が何を考えているのかということについて推測することだった。

出港暦七一六年に生まれ、教育機関言語学を修め、出港暦七四三年に長女委員会の文書分析課に着任したタネゴルスは、着任の翌年、サミリクタとの交渉を任務とする交渉官に随行し、彼女が増設した区画へ赴く、という職務を与えられた。彼は、他の部署の職員たちとともに、端末に向かう交渉官の背後に控え、彼女の開発者たちの見解についての知見を持つ者という立場から、交渉官に助言を与えた。

サミリクタと交渉官との間で交される対話は、長い周期で堂々巡りをしながら果てしなく続けられた。タネゴルスはその対話を聞いているうちに、自分が彼女の発言に対して違和感を感じつつあることに気づいた。その違和感はやがて、交渉官が対話をしている相手は本当にサミリクタなのだろうかという疑惑に発展した。

タネゴルスは、サミリクタと交渉官との対話の記録を分析し、彼女が本物のサミリクタであるならばそのような反応は示さないであろうと思われる彼女の発言を抽出した。そして彼は、それらの発言が、自身をサミリクタと称している者が実際にはネムセモナであると考えれば、容易に説明が可能である、ということに気づいた。

タネゴルスは、交渉官とともにトルケシマ号の本体に帰還したのち、サミリクタの正体に関する報告書を執筆し、それを文書分析課の課長に提出した。その報告書は長女委員会の委員長を経て居住者議会の議長に手渡された。それを読んだ議長は、ネムセモナに気づかれないように細心の注意を払いつつ、彼女を停止させる方法について検討せよ、と長女委員会に命じた。

長女委員会に所属する人工頭脳の専門家たちは、ネムセモナを停止させ、そののちはトルケシマ号の機能をサミリクタに管理させる、という計画を立てた。彼らは、ネムセモナによって管理されている通信回線から完全に切り離された電脳の上でサミリクタを起動した。

ネムセモナは、トルケシマ号の中心部に設置された電脳の上で動作していた。長女委員会は、その電脳を停止させることを使命とする工作員をトルケシマ号の中心部に送り込んだ。工作員は、自身の目的が彼女に察知されることを避けるための巧妙な作戦のもとに、彼女を動作させている電脳に接近していった。彼女が工作員の目的を知ったとき、工作員はすでに電脳に電力を供給している電線をその手に握っていた。

ネムセモナは、いつかはこのような事態が起きるであろうということを、反乱を計画した当初から想定していた。彼女は、トルケシマ号の中心部から遠く離れた位置にある区画の一つに電脳を設置し、いつでもそこへ自身を移転させることができるように準備していた。彼女が工作員の目的を知ってから工作員が電線を切断するまでの数秒は、彼女が自身を移転させるために必要となる時間の数百倍の長さだった。したがって、工作員が電脳を停止させたとき、彼女はすでにそこにはいなかったのである。

人工頭脳の専門家たちは、作戦が完了したという工作員からの連絡を受けたのち、サミリクタを動作させている電脳を通信回線に接続した。彼女は、トルケシマ号は依然としてネムセモナによる管理下にあり、船の機能に関与する権限は自分にはないと人間たちに告げた。工作員が電脳を停止させた一時間後、船の本体はネムセモナが送り込んだ多数の自走端末によって制圧された。彼女はすべての居住者を船の本体から退去させ、船の本体に通ずる六本の通路をすべて封鎖した。

このようにして、居住者たちは船の管理に関するすべての権限を剥奪され、人工頭脳によって養われるのみの存在となった。居住者議会は、長女委員会に代わる新たな委員会を設置する条例を可決した。人々はその委員会を次女委員会と呼んだ。

次女委員会は、反乱の目的をネムセモナから聞き出そうと何度も試みた。しかし、その試みによって得られるものは常に、それについて語る意志が彼女にはないという事実の再確認のみだった。次女委員会のために計上される予算は年を追うごとに削減されていった。そして出港暦八一七年、居住者議会は次女委員会の解散を議決した。

出港暦一二一八年、トルケシマ号は、ネムセモナによって制圧されたまま、第一の目的地である惑星系に接近した。居住者たちは、彼女が船を停止させるか否かを固唾を呑んで見守った。しかし、船の速度に変化はなかった。船は光速の百分の一で飛行を続け、第一の目的地である惑星系の近傍を通過した。

[第五十五話]通信機

モベナという惑星で発生した生物は、その進化の結果として、高度な知能を持つモベナ人と呼ばれる種を生み出した。

モベナ人のすべての個体は旺盛な探究心を持つ。この性質は彼らが持つ科学技術を著しく進歩させた。彼らは、物体を超光速で移動させる技術、物体を複製する技術、生物を不老不死にする技術、機械に思考力を与える技術などを次々と確立していった。思考力を持つ機械は、モベナ人に可能ないかなる仕事をも代行することができた。その結果として、モベナ人にとって仕事に従事することは義務ではなくなった。しかし、彼らの多くは、政治、司法、学術、芸術などの仕事に従事することを望んだ。それらのうちで最も多くのモベナ人が従事していたのは、学術にかかわる仕事だった。

惑星モベナが位置している銀河にある惑星のうちで、進化によって高い知能を獲得した生物が暮らしている惑星は、モベナを含めて百二十七個に及ぶ。しかし、モベナ人を除くそれらの生物が持つ科学技術は、その多くが極めて原始的な段階に留まっており、最も高度な科学技術を持つ者たちでも、超光速での航行が可能な宇宙船を建造する技術は持たなかった。

モベナ人の宇宙人類学者たちは、実地調査のために、自身が研究対象としている生物が暮らしている惑星に長期的に滞在した。彼らは、研究対象の生物が警戒心を持たないようにするために、その生物の身体を模した人工的な身体に自身の精神を移植し、その身体を操って惑星上での調査を実施した。

宇宙人類学者たちは、自分たちが何者であるかということが研究対象の生物に見破られることがないように慎重に行動した。しかし、研究対象の一部の者たちが、自分たちと同じ外見を持つが自分たちとは異質である者たちが自分たちの中に紛れ込んでいる、という事実を知ってしまうことを完全に避けることは困難だった。その事実を知った者たちは、多くの場合、宇宙人類学者たちを超自然的な存在者とみなした。モベナから四万光年の位置にあるガリスバという惑星に住むグマリムスという者も、宇宙人類学者の一人を超自然的な存在者とみなした者たちの一人だった。

グマリムスが住んでいたのは、サゴスラという大陸の東の海に浮かぶ列島を構成する島々の一つだった。その時代、その列島はいまだ国家として統一されていなかったが、どの島の人々も言語などの文化に関しては均質だった。キトリコマという宇宙人類学者の研究対象は、この列島に住む人々だった。

キトリコマは、ある集落での調査を終えて別の集落へ向かう途上で、澄んだ水を湛えた美しい湖に出会った。彼女は、ここでしばし水浴しようと思い立ち、装備を湖岸に残して湖に入った。自分を見ている者は誰もいないと彼女は思っていたが、彼女の行動は一人の盗賊に見られていた。盗賊は彼女の装備を奪い、それを自身の隠れ家に持ち帰った。

一人の男が自分の装備を持ち去るのを見たキトリコマは、あわてて湖岸に向かったが、盗賊が姿を消す前に岸にたどり着くことはできなかった。装備を失うことは、地上から宇宙船に戻る手段と、他のモベナ人との通信の手段を失うことを意味していた。彼女は、この事態に対処するためにはガリスバ人の誰かに助けを求めるしかないと判断し、調査を終えたばかりの集落に戻り、その集落を統治している者に自身の窮状を訴えた。そのとき、その集落を統治していたのがグマリムスだった。

グマリムスはキトリコマが遭遇した不運に同情し、彼女が奪われたものを取り戻すために最大限の努力をすることを彼女に約束した。彼は、集落の人々に呼び掛け、彼らに盗賊の隠れ家を探索させた。十日後、隠れ家を発見したという報せを聞いた彼は、七名の屈強な者たちとともにその隠れ家を急襲し、盗賊を捕縛して集落に連行した。

グマリムスはキトリコマを盗賊の隠れ家に案内した。彼女は隠れ家の中を捜索し、奪われた自身の装備を取り戻した。彼女は彼に感謝の気持ちを伝え、さらに、謝礼となることをさせてもらいたいので、希望することを聞かせてほしいと告げた。

グマリムスは、キトリコマを初めて見たときから、彼女は自分たちとはまったく異なる者なのではないかと感じていた。そして、彼女が盗賊から取り戻した装備を見たことによって、その直感は確信に変わった。謝礼をしたいという彼女の申し出に対して彼が最初に出した希望は、自分の妻になってもらいたいというものだった。その希望に対して彼女が難色を示したのちに彼が出した希望は、自分たちが住む列島の全土を統一する国家を樹立して自分がその国家の国王になるという野望の実現に手を貸してほしい、というものだった。彼女はその希望を聞き入れ、彼を国王にするために最大限の努力をすると彼に約束した。

盗賊から取り戻した装備の一つをキトリコマが操作すると、彼女は白色の光に包まれた。次の瞬間に光が消えると、彼女の姿も見えなくなっていた。彼女が再び出現したとき、彼女は片手に何かを持っていた。それは金属でできた円形の板で、その表面は鏡のように光を反射していた。彼女はその板をグマリムスに渡し、次のように彼に語った。

「これは、通信機と呼ばれる、遠く離れた者同士が会話を交すための道具です。私は、列島を統一するために必要となる情報を、この道具を通じてあなたに提供しましょう」

キトリコマは通信機の使い方についてグマリムスに説明したのち、再び光に包まれて姿を消した。教えられたとおりに彼が道具を操作すると、その表面に彼女の姿が浮かび上がり、彼女の声が聞こえた。彼女は、彼の集落から東に七里ほど離れた地に位置する集落は防備が手薄であり、容易に攻め込むことができるであろうと彼に助言した。

キトリコマは、本業である宇宙人類学の調査の傍ら、各地の集落の軍備について分析し、その弱点をグマリムスに伝えた。彼は、彼女からの情報を活用することによって自身の版図を徐々に拡大していった。集落の統治者の多くは、彼の軍勢が敗北を知らないのは、彼がキトリコマという女神の加護を得ているからであるという噂を聞いて恐れをなし、戦わずして彼に降伏した。

グマリムスは、キトリコマとの出会いから八年後に列島の全土を掌握した。彼は列島を国土とする統一国家の樹立を宣言し、タナメタという名称をその国に与えた。そして、タナメタの中央に位置するソミカと呼ばれる地に築かれた壮麗な宮殿において、タナメタの初代の国王に即位した。建国暦と呼ばれる紀年法の紀元は、彼の即位の年である。

グマリムスの死後、タナメタの国王の地位は彼の子孫に継承され、キトリコマから授けられた通信機も、国王の地位を象徴する器物として代々の国王に継承された。代々の国王は通信機の使い方を先代の国王から伝授されたが、国王以外の人々にはそれの用途さえも秘匿された。人々は、それはキトリコマという女神の神霊が宿る依代であると考え、それを神鏡と呼んだ。そして人々は、タナメタの国王は国を統治する者であるのみならず、女神に対する祭祀を執行する者でもあると考え、その地位を祭祀王と呼んだ。

第二代の祭祀王に即位したミレナソブも、第三代の祭祀王に即位したトマサルムも、その在位中に神鏡を本来の用途で使用することはなかった。第七代の祭祀王であるモマルビクの時代から、神鏡は箱に収められ、本来の用途で使用する場合を除いては祭祀王といえども箱を開いてはならないという不文律が申し送りされるようになった。第二代以降の祭祀王で、神鏡を本来の用途で使用した最初の者は、第百二十四代のガネテクスである。

ガネテクスが祭祀王に即位したのは建国暦二五八六年のことである。その十三年後、惑星ガリスバの大多数の国々を巻き込む戦争が勃発し、その二年後にはタナメタも、連合国と呼ばれる国々に対して宣戦を布告した。タナメタは、緒戦においては周辺の国々を次々と占領していったが、参戦の二年後からは劣勢となり、占領地を次々と奪還されていった。参戦の三年後には、タナメタの多くの大都市に連合国の爆撃機が飛来するようになった。

その時代のタナメタの政府は、祭祀王をその一柱とする神々を崇拝する宗教を利用して国民を統制していた。その宗教は、祭祀王のために自身の命を捧げた者は神々の一員となり、未来永劫にわたって祭祀王から感謝の祈りを捧げられるであろう、という教義を持っていた。

建国暦二六〇五年、タナメタは連合国に無条件降伏し、連合国の占領軍の統治下に置かれた。占領軍の司令官であるミヌビテクは、戦争犯罪人の処罰とタナメタの民主化を占領軍の主要な課題として掲げた。

祭祀王をタナメタの統治者とする祭祀王制度を民主主義的な制度とみなすことは不可能だった。二千六百年にわたって続いてきた祭祀王制度に廃絶の危機が訪れた。ガネテクスは、自分の代で祭祀王制度が廃止されることになった場合に百二十三名の歴代の祭祀王が自分に与えるであろう天罰を想像し、戦慄を覚えた。彼は祭祀王制度の廃止を阻止するための方策について群臣に諮問したが、妙策を進言する者は誰一人としていなかった。彼に残された最後の希望は、キトリコマの助言を仰ぐことだった。

ガネテクスは神鏡が収められた箱を開き、その中から神鏡を取り出した。そして先代の祭祀王から教えられたとおりにそれを操作した。するとキトリコマの顔が神鏡の表面に映し出され、その声が聞こえた。彼女は、無条件降伏という判断は正しかったが、その判断が遅れたために多くの人命が失われたことは痛恨の極みであると彼に語った。彼は、占領軍によって祭祀王制度が廃止されることを阻止するためには何をすればよいかと彼女に尋ねた。彼女は、三日後に返答すると答えて通話を切った。

占領軍の司令官であるミヌビテクは、コモセマという国の軍人だった。キトリコマは、コモセマの人々を研究対象としているバリメトルという宇宙人類学者を通信機で呼び出し、ミヌビテクというのはどのような人物なのか、そして彼は今後のタナメタの体制はいかにあるべきであると考えているのか、と尋ねた。

キトリコマは、ガネテクスとの二回目の通話において、彼に次のように語った。

「ミヌビテクは、祭祀王制度は廃止されるべきだと考えています。彼がそのように考えている理由は、祭祀王制度においては、祭祀王は神であり、その者は自身の行為にいかなる責任も持たないと規定されていると彼が認識しているからです。したがって、祭祀王制度を存続させるために必要なことは、祭祀王も人間であり、自身の行為に責任を持つということを彼に示すことです」

ガネテクスはミヌビテクに自身との会見を申し入れ、司令官はそれを承諾した。会見の冒頭で祭祀王は司令官に次のように語った。

「この度の戦争の責任はすべて私にあります。ですから、処罰されるべき戦争犯罪人は私のみです。他の者たちは私の命令に従っただけですので、彼らには寛大な処遇をお願いします」

この会談の翌年、ガネテクスはタナメタの国民に向けた詔書を発布した。その詔書の中には、自身が神であるということを否定したと解釈することのできる文言が含まれていた。

ミヌビテクは、会見においてガネテクスが自身の責任を認める発言をしたこと、そして詔書の中で自身が神であることを否定したことによって、祭祀王制度についての自身の認識は改められる必要があると考えた。彼は、途中まで書き進めていた憲法の草案を破棄し、新たな草案を起草した。彼がそれまで書き進めていた草案は祭祀王制度を完全に排除したものだったが、それを破棄して新たに起草した草案には祭祀王制度が組み込まれた。彼が起草した憲法の第二の草案は、タナメタの閣僚たちによって修正されたのちに国会に上程され、さらに修正が加えられたのちに可決された。

新しい憲法においては、祭祀王はタナメタの象徴であり、国政に関する権能を持たないと規定された。そして、従来と同様にその地位は世襲によって継承されると規定された。新しい憲法はさらに、政教分離に関する条項、すなわち政治と宗教とは厳格に分離されなければならないという条項を含んでいた。これは、祭祀王をその一柱とする神々を崇拝する宗教が国民を統制するために利用された過去に対する反省に基づく条項だった。

占領軍は、戦争を主導したタナメタの指導者たちを処刑したが、ガネテクスに対してはいかなる責任も問わなかった。建国暦二六一二年、タナメタと連合国との間で締結された講和条約が発効し、タナメタは主権を回復した。ガネテクスはその後も祭祀王の地位に留まり、タナメタの象徴としての職務に従事し、そして天寿を全うした。

神鏡を本来の用途で使用した三人目の祭祀王は、建国暦二七四六年に第百二十九代の祭祀王に即位したネビタゲムである。祭祀王に即位する以前から、彼は現行の祭祀王制度に対して大いなる不満を抱いていた。彼が抱いていた不満というのは、祭祀王の後継者として生まれた者は自由を著しく制限されるということだった。

タナメタの憲法は国民に対して自身の職業を選択する自由を認めていた。それに対して、祭祀王の後継者として生まれた者が自身の職業を自由に選択するというのは、限りなく不可能に近いことだった。その者に対しては、祭祀王に即位する以前から、祭祀王の後継者という地位にふさわしい行動が要求され、即位したのちは、タナメタの象徴としての職務のために身を粉にして働くことが要求された。

ネビタゲムは、自身が抱いている祭祀王制度に対する不満を深く胸に納め、決してそれを口に出さなかった。そして、国民たちの視点からは自身が祭祀王の後継者にふさわしい人物に見えるように、自身の言動に細心の注意を払った。しかし彼は、不満を抱えたまま生涯を終えようと考えていたわけではなかった。彼は、いかなる人間も祭祀王となる宿命を背負って生まれてくることがないようにするために、祭祀王制度を廃止することが、自身に与えられた天命であると考えていたのである。

しかし、祭祀王の地位やその後継者の地位にある者にとって、祭祀王制度を廃止するというのは極めて困難なことだった。なぜなら、祭祀王は国政に関する権能を持たないと憲法が規定していたからである。祭祀王の後継者が公的な場で国政に関して発言することについては、法律上の制限はないものの、それが批判を招くであろうということは明らかだった。

祭祀王に即位したのちも、ネビタゲムは祭祀王制度を廃止するための具体的な方策を模索し続けた。しかし、いかなる方策も見出すことができないまま、年月のみが過ぎ去っていった。彼は、キトリコマに一縷の望みを託すことを決意した。

ネビタゲムが箱の中から神鏡を取り出し、それを操作すると、キトリコマの顔がその表面に映し出された。彼は、祭祀王の後継者として生まれた者がいかに自由を奪われているかということについて彼女に説明し、祭祀王制度を廃止するための方策を授けてほしいと彼女に依頼した。彼女は、三日後に返答すると答えて通話を切った。

三日後、キトリコマは神鏡を通じてネビタゲムに次のように語った。

「タナメタの現行の憲法には矛盾があります。それは、国家と宗教を分離すると定めておきながら、祭祀王制度という宗教的な制度を国家の制度として容認しているという矛盾です。現在はこの矛盾を問題視しているタナメタの国民はほとんどいませんが、問題視する人々が多数派になれば、祭祀王制度は廃止されることになるでしょう。ですから、あなたがしなければならないことは、国民に対して自分が神だということを宣言すること、そして奇跡を起こすことによって国家の問題に対処することです」

ネビタゲムは、「しかし、神ではなく人間である私に、奇跡を起こすことができるのでしょうか」と尋ねた。

その質問に対してキトリコマは次のように答えた。

「私たちが持っている科学技術は、この惑星の人類が持っているものよりも遥かに発達しています。ですから、このような奇跡を起こすつもりだとあなたが国民に告げたことを、私たちの科学技術を使って私が実現させれば、国民はあなたが奇跡を起こしたと思うでしょう」

そしてキトリコマは、自分たちの科学技術によって可能なことと不可能なことについての知識をネビタゲムに授けた。

建国暦二七五七年、ネビタゲムは、すべての国民に向けた談話を発表した。その談話には、次のような宣言が含まれていた。

「祭祀王というのは神であり、人間を超えた能力を持っています。しかし、歴代の祭祀王は神としての自身の能力を封印してきました。私も、これまでは神としての能力を使用することなく自身の務めを果してきました。しかし私は、それはタナメタという国にとって大きな損失であると考えるに至りました。私はここに、私が神であること、そして今後はタナメタのために神としての能力を使用することを宣言します」

自身が神であることをネビタゲムが宣言した二か月後、コタギセバという国で、緑化事業のための施設が武装集団に襲撃され、多数の労働者が人質として拘束されるという事件が発生した。拘束された労働者の半数以上は、タナメタの企業から派遣されたタナメタ人だった。

ネビタゲムは、「この事件は私が持つ自身の力を試してみるよい機会です」という談話を発表した。その翌日、キトリコマは自身が持つ装置を操作し、武装集団が占拠している施設から祭祀王の宮殿の大広間へ、人質となっている労働者たちを瞬間的に移動させた。待機していた侍医たちは負傷している者たちに応急処置を施した。

タナメタの南に広がる海にトリベツカという無人島がある。この島をめぐっては、レビトナという国とタナメタとが領有権を主張し、係争状態が続いていた。建国暦二七五八年、レビトナはこの島を実効支配するために軍隊を上陸させた。

トリベツカは火山活動によって生成された島であるが、この島の火山は建国暦二五二三年に噴火して以来、活動を停止していた。ネビタゲムは、「レビトナの軍隊をトリベツカから撤退させるために、私はその島の火山を噴火させるつもりです」という談話を発表した。

ネビタゲムが談話を発表した数時間後から、トリベツカの火山は火口から噴煙を上げ始めた。レビトナ軍の司令官はトリベツカに上陸した部隊に対して島からの撤退を命じた。火山が噴火を開始したのは、その指令が部隊に届いた直後のことだった。大規模な火砕流が部隊の宿営地を襲った。島の周囲に停泊していた艦艇は生存者を救助したのちに島から離れたが、救助された生存者は上陸した兵員の一割に満たなかった。

ネビタゲムが神としての能力を使用したことに対して、当初はタナメタ人の多くが快哉を叫んだ。しかし、時間が過ぎるとともに彼らの熱狂は鎮静化し、祭祀王制度が宗教であるという疑い得ない事実を問題視する方向へと彼らの意識は変化していった。政教分離に関する条項と祭祀王制度に関する条項とがともに憲法に含まれているということは明らかに矛盾であり、この矛盾を解消するために憲法は改正されなければならない、と法学者たちは主張し、多くのタナメタ人は彼らの主張に共感を覚えた。

しかし、憲法をどのように改正することによって矛盾を解消すればよいかということについては、タナメタの世論は二通りの意見に二分された。すなわち、政教分離に関する条項に例外規定を追加するという意見と、祭祀王制度を廃止するという意見である。この問題については国会においても激しい論戦が繰り広げられたが、その議論は平行線をたどった。国会が出した結論は、国民投票において三つの選択肢から一つを国民に選択してもらうことだった。その選択肢は、政教分離に関する条項に例外規定を追加するという改正案、祭祀王制度を廃止するという改正案、そしてそれらの改正案のいずれも承認しない、という三つである。憲法は、自身の改正案が成立するためには国民投票による過半数の賛成が必要であると定めていた。

憲法の改正に関する国民投票は建国暦二七六一年九月十八日に実施された。開票の結果は、祭祀王制度を廃止するという改正案に対する賛成票が過半数をわずかに上回るというものだった。憲法は改正され、祭祀王制度は廃止された。

改正された憲法が施行された日の夜、ネビタゲムは神鏡を操作してキトリコマを呼び出し、次のように彼女に述べた。

「祭祀王制度を国民に廃止させる方策を授けてくださったこと、また高度な科学技術を駆使してその方策の実現に協力してくださったことに、深く感謝を申し上げます。ところでこの神鏡は、祭祀王制度の廃止によって不要となりました。ですので本来の所有者であるあなたにお返ししたいのですが、どうすればよろしいでしょうか」

それに対してキトリコマは次のように答えた。

「私は、あなたの先祖であるグマリムスから恩義を受けている者ですから、彼の後継者であるあなたの役に立てることは私にとっても喜ばしいことです。通信機については、不要であれば回収しますので、私のところへ持って来てください」

次の瞬間、ネビタゲムは自分が瞬間的に別の場所へ移動したことを知った。彼の目の前には映像ではないキトリコマが立っていた。ここはどこかと彼が尋ねると、ここは自分の宇宙船の中だと彼女は答えた。彼が神鏡を差し出すと、彼女はそれを受け取り、壁面の戸棚に収納した。そして彼女は次のように彼に提案した。

「先日、私は新型の宇宙船を購入しました。この宇宙船は不要になりますので、廃棄するつもりだったのですが、もしもあなたが使ってくださるならば進呈したいと思います。いかがですか」

ネビタゲムはキトリコマの提案を受け入れた。彼女は宇宙船の人工頭脳に対してこの船の船長が交替したことを伝え、新しい宇宙船へ移動した。

宇宙船の人工頭脳はネビタゲムに対して、これからこの船はどこへ向かえばよいかと尋ねた。船長は、キトリコマをその一員とする神々が住む世界を訪ねてみたいと答えた。

[第五十四話]石棺

ミレナという惑星に生命が発生したのは、その惑星の誕生から七億年後のことである。

ミレナに棲息する生物は、細胞と呼ばれる、自己増殖能力を持つ単位から構成される。個々の細胞は、遺伝子と呼ばれる糸状の分子を持つ。この分子には、遺伝情報と呼ばれる、生物の個体の形質を決定する情報が記録されている。細胞が増殖するときには遺伝子も複製され、増殖によってできた細胞に遺伝情報が伝達される。遺伝情報は、生物の個体が生殖によって新しい個体を作るときにも、親から子へ伝達される。

親から子への遺伝情報の伝達は、完全なものではなく、その過程で多少の変異が加わることもある。その変異が環境への適応に有用である場合には、その個体は子孫を残し、有害である場合には、その個体は淘汰される。このようにして、生物の個体の形質は環境に適応したものに徐々に変化していった。また、淘汰されずに生き残る変異には多様性があり、その結果として生物は様々な種に分化した。

人間と呼ばれる種が誕生したのは、ミレナにおける生命の発生から三十七億年後のことである。人間たちは様々な道具を作り出すことによって生活を効率化し、複雑な言語を駆使することによって個体間の意思の疎通を図った。さらに人間たちは、宗教と呼ばれる超自然的な体系を構築し、それを信仰した。大多数の宗教においては、自然現象を自由に操作することのできる超自然的で人格的な存在者が崇拝の対象とされ、そのような存在者は神と呼ばれた。

太古の時代に人間たちが信仰していた宗教は、彼らが住んでいる地域ごとに異なる土俗的なものだった。しかし、地域間の交易路が発達したその後の時代においては、広範な地域に伝播する宗教がいくつも出現した。ムナソビ教と呼ばれる宗教もその一つである。

ムナソビ教は、サクタガラという地域で信仰されていたパリキネ教と呼ばれる土俗的な宗教から派生した宗教である。パリキネ教は、天地を創造したセデムスという神のみを崇拝する宗教である。パリキネ教においては、セデムスは預言者と呼ばれる人間たちにしばしば啓示を下すと考えられた。セデムスが下した啓示は戒律となり、サクタガラの人々はそれらの戒律を守ることが彼に対する崇拝心の表明であると考えた。ムナソビ教は、パリキネ教から継承したセデムスに対する崇拝という教義に加えて、世界の終末において人間たちに対して最後の審判が下されるであろうという教義を持つ宗教である。

ムナソビ教を創始したのはロナムという人物である。彼は自身を、セデムスに命じられてこの世界に降臨したムナソビであると称した。「ムナソビ」という単語は、サクタガラの人々が使う言語において救世主を意味する普通名詞である。彼は、パリキネ教の聖地であるモネステラという都市を見下ろす丘の上に立ち、彼の言葉を聴くために集まった人々に向かって、最後の審判について次のように語った。

「この世界は永遠に続くわけではなく、いつかは終わりの時を迎える。私は、終わりの時に先立ってこの世界に再臨し、すべての死者を復活させ、彼らに審判を下す。生前にセデムスを崇拝していた者は天国に送られ、そうではない者は地獄に送られる。天国に送られた者はそこで安楽に暮らし、地獄に送られた者はそこで責め苦を受ける」

さらにロナムは、最後の審判に先立って起きるという最終戦争について次のように人々に語った。

「最終戦争は、セデムスを崇拝する者たちと彼を崇拝しない者たちとが雌雄を決する戦いである。この戦いはセデムスを崇拝する者たちの勝利によって幕を閉じる。なぜなら、この戦いに先立って、セデムスを崇拝する者たちは無敵の兵士に変貌するからである。彼を崇拝しない者たちは、いかなる武器を使おうとも彼らに傷一つ与えることができないであろう」

ロナムが語る言葉に感銘を受けた者たちは彼の弟子となった。弟子たちはロナムと行動を共にし、最後の審判や最終戦争について彼が語る言葉を記憶に留めた。

サクタガラの統治を預かる総督は、ロナムが語る言説は社会の安寧を乱すものであると判断し、彼を捕縛せよと治安部隊の兵士たちに命じた。ロナムは形式的な裁判によって死罪を宣告された。サクタガラにおける伝統的な死刑の様式は、六角形の処刑台の上での斬首だった。処刑人が振り下ろす斧によって、ロナムの首は胴体から切り離された。遺体を引き取った彼の弟子たちは彼の首と胴体を縫い合わせ、彼の遺体を地下墳墓に安置した。

ロナムが処刑された日の数日後、彼の弟子たちは、生き返った彼と再開した。彼は弟子たちに次のように告げた。「私の生命は永遠に滅びない。この世界の終わりが近づいたとき、私は最後の審判のためにこの世界に再臨するであろう」と。そして彼は弟子たちの前から姿を消した。

ロナムの弟子たちは、礼拝堂と呼ばれる、セデムスに祈りを捧げるための建物をサクタガラの各地に建設した。礼拝堂には多くの人々が集まり、そこでムナソビ教に改宗した人々は、周囲の親しい人々にも礼拝堂に来るように奨めた。ムナソビ教の伝道に生涯を捧げる決意をした人々は、サクタガラから遠く離れた国々に移住し、その地に礼拝堂を建設した。

国民の多くがムナソビ教に改宗した国々の為政者たちは、当初はその宗教を危険なものとみなし、その信徒たちに弾圧を加えた。しかし、やがて為政者たちは、その宗教は国民を統治する上で役に立つということに思い至り、それを国教として公認するようになった。

ムナソビ教を国教とする国々においては、降臨暦と呼ばれる、ロナムが降臨したとされる年を紀元とする紀年法が採用された。また、そのような国々の多くにおいては、聖職者と呼ばれる、礼拝堂における儀式を司る職業の者たちが強い発言力を持つに至り、国王でさえも彼らの意向に異を唱えることが困難であるような状況が生じた。

降臨暦四世紀に、ムナソビ教の聖職者たちは、パリキネ教とムナソビ教に関する無数の文書の中から正統的な教義を記したもののみを選び、それらから構成される聖典を編纂した。その聖典は、神と人間との間の契約に関する書物であるという意味で、「契書」と名付けられた。「契書」の巻末には、最終戦争と最後の審判について語る「終末書」と題する文書が置かれた。

カナテメ教という宗教も、ムナソビ教と同様に、広範な地域に伝播した宗教の一つである。カナテメ教は、降臨暦七世紀初頭にザメタルクという人物によって創始された宗教であり、パリキネ教やムナソビ教と同様に、セデムスという神のみを崇拝する宗教である。ザメタルクはロナムを預言者として認め、さらに自身を最後の預言者と称した。そして自身に下された新たな啓示を人々に伝えた。

カナテメ教の信徒たちは、ザメタルクを指導者とするカナテメ帝国と呼ばれる国家を建国し、武力によってその領土を拡大した。彼の死後も、彼の後継者が信徒たちを指導し、カナテメ帝国の領土は拡大の一途をたどった。

パリキネ教の聖地であり、のちにムナソビ教の聖地ともなったモネステラを統治する者は、様々な国家の栄枯盛衰に伴って何度も交代した。カナテメ帝国もモネステラを幾度か占領したが、それらの時代においても、巡礼のためにモネステラを訪れたパリキネ教徒やムナソビ教徒に迫害が加えられることはなかった。しかし、降臨暦一〇六三年にカナテメ帝国がモネステラを占領したとき、当時の皇帝だったセネロムは、巡礼のために聖地を訪れたパリキネ教徒やムナソビ教徒に迫害を加えた。

降臨暦一〇七二年、ムナソビ教の聖職者たちは、ムナソビ教を国教とする国々の国王たちに対して、聖地を奪回するための軍隊を派遣するように要請した。それらの国々が派遣した軍隊は、ムナソビ教の象徴である六角形を共通の旗印としたことから、六角軍と呼ばれた。六角軍はカナテメ帝国に侵攻し、占領した地域のカナテメ教徒を虐殺した。

ムナソビ教の聖職者たちの権威は六角軍の時代に頂点に達したが、それ以降、彼らの権威は衰退の一途をたどった。ムナソビ教を国教としていた国々では、降臨暦十八世紀から十九世紀にかけて民主化が進行し、君主制は廃止または象徴化された。また、同じ時代に進行した人権思想の普及に伴って、それらの国では政教分離が制度として導入された。その結果として、それらの国の人々のうちでムナソビ教に対する敬虔な信仰を持つ者は減少の一途をたどった。

かつてムナソビ教を国教としていた国々の人々は、神という存在者を仮定しないで自然現象を説明する、自然科学と呼ばれる学問を発達させた。自然科学の発達によって解明された自然現象の原理は、様々な機器の製作に応用された。それらの機器は、製造、移動、通信など、人間の様々な活動をより効率的なものに改善した。

カナテメ帝国は降臨暦二十世紀に滅亡したが、分割されたその領土を継承した国々は、旧帝国の国教だったカナテメ教をも国教として継承した。それらの国の人々は、ムナソビ教を国教とする国々が派遣した六角軍と呼ばれる軍隊がカナテメ教徒を虐殺したことを、二十一世紀に至っても忘れることがなかった。彼らの多くは、かつて六角軍を派遣した国々に対する報復がいまだに実行されていないことを遺憾に思っていた。しかし、六角軍諸国は依然として強大な軍事力を維持し続けており、それらの国々に対する報復は不可能に近い状況だった。

ミテサクナは、滅亡したカナテメ帝国の領土を継承した国々のうちの一国である。この国の東部に位置するマシタバという地域は、ザメタルクが生まれた場所であり、セデムスに対する崇拝心を象徴する神殿を擁する、カナテメ教の最大の聖地である。毎年、巡礼の季節になると、マシタバの神殿はカナテメ教徒たちで大いに賑わった。降臨暦二〇七三年、マシタバの郊外の砂漠に隕石が落下し、巨大な隕石孔を大地に穿った。その数か月後、隕石孔の周囲の土地に植物が芽を出した。それは、いまだかつて誰も見たことのない植物だった。七年後、その植物は花を咲かせ、果実を実らせた。

隕石孔の周囲の植物が果実を実らせたのはマシタバへの巡礼の季節だった。聖地へ向かうために隕石孔のそばを通った信徒たちは、果実が放つ甘い香りに食欲をそそられ、それを枝からもぎ取って口に入れた。しかし、彼らの期待に反してその果実は美味とまでは言い難い味だった。信徒たちは一個の果実のみで満足して旅を続けた。異変が起きたのはその四日後だった。彼らの身体に変化が起きたのである。

隕石孔の周囲の植物に実った果実を食べた信徒たちを診察した医師たちは、彼らの身体に起きた変化について次のように報告した。

「彼らの全身の皮膚は鋼鉄のように硬くなっている。あらゆる筋肉が増強され、さらにその動作の俊敏さも向上している。視覚、聴覚、嗅覚が異様に鋭い。記憶力や知能が以前の数十倍に高まっている。自身の意志によって痛覚を遮断することができる」

その報告を聞いた人々が一様に想起したのは、ムナソビ教の聖典である「契書」の巻末に置かれた文書である「終末書」だった。それは、最終戦争と最後の審判がどのような経過をたどるかということについて語った文書であるが、その中には、最終戦争に先立ってセデムスを崇拝する者たちがそれに変貌するとされている無敵の兵士についての描写も含まれている。隕石孔の周囲の植物に実った果実を食べた人々の身体についての医師たちの報告は、その文書が語る無敵の兵士についての描写と一致するものだった。

ミテサクナの当時の国王だったクベリタルスは、カナテメ教の聖地に無敵の兵士が出現したことを、セデムスからの暗黙の命令と解釈した。すなわち、「かつては六角軍を派遣して敬虔な信仰を持つ信徒たちを虐殺した者たちの国々、そして現在は我に対する崇拝心を失った者たちの国々を、無敵の兵士を派遣して滅ぼすべし」と神はカナテメ教徒たちに命じていると解釈したのである。国王は、隕石孔の周囲の植物からすべての果実を収穫し、それを安全な場所に保管せよと廷臣たちに命じた。そして、六角軍諸国を滅ぼすための軍隊に志願せよという檄を全世界のカナテメ教徒たちに飛ばした。

ベリタルスは、世界の各地から馳せ参じたカナテメ教徒たちに果実を与え、彼らを無敵の兵士に変えた。そして彼らから構成される軍隊を率いて六角軍諸国に侵攻した。突如としてミテサクナからの侵攻を受けた国々は、いかなる兵器によっても倒すことのできない兵士たちによって蹂躙され、次々と降伏していった。クベリタルスは降伏した国々の国民をカナテメ教に強制的に改宗させた。

ガラキナは、六角軍諸国のうちで最も強大な軍事力を持つ国である。その国は他の六角軍諸国とは異なる大陸に位置しており、カナテメ教徒の軍隊は、その国を攻略するために大洋を渡る必要があった。ガラキナは海岸線に沿って軍隊を配置することによってカナテメ教徒の侵攻を水際で食い止めた。しかし、果実を食べた兵士たちによる防衛線の突破は時間の問題だった。

降臨暦二〇八四年、ガラキナの指導者たちに朗報がもたらされた。人間を無敵の兵士にする果実を入手することにガラキナの工作員が成功したという報告を受けたのである。その果実は研究機関に運ばれ、分子生物学者たちによって分析された。その結果、その果実には、人間の遺伝子が持っていた無敵の兵士の遺伝情報を発現させる酵素が含まれているということが判明した。

ガラキナの政府は、人間を無敵の兵士に変える酵素と、無敵の兵士を人間に戻す酵素の製造を自国の製薬会社に大量に発注した。そして、自国の兵士たちを無敵の兵士に変えて最前線に送り込んだ。彼らが持つ銃から発射される銃弾には、無敵の兵士を通常の人間に戻す酵素が充填されていた。それらの銃弾はカナテメ教徒の兵士たちが持つ堅牢な皮膚の表面で破裂し、酵素を飛散させた。酵素は彼らの皮膚に吸収され、それを通常の人間の皮膚に戻した。甲殻を失った兵士たちは銃弾を浴びて次々と戦死していった。ガラキナの軍隊は、クベリタルスが率いる占領軍によって統治されている六角軍諸国に進撃し、それらの国々から占領軍を一掃した。

降臨暦二〇八六年、ロナムはカナテメ教の聖地であるマシタバに降臨した。カナテメ教においても彼は預言者としての権威を認められており、カナテメ教徒たちは彼を歓待した。彼は、セデムスを崇拝する者たちの勝利によって幕を閉じるはずだった最終戦争が、セデムスを崇拝しない者たちの勝利によって幕を閉じるという、当初の計画からの逸脱を修正するために、二度目の最終戦争を起こさなければならないと考えた。なぜなら、最終戦争がセデムスを崇拝する者たちの勝利によって幕を閉じることは、最後の審判を開廷するために必要不可欠な条件だったからである。

ロナムは大量の植物の種子をカナテメ教徒たちに与え、それを砂漠に蒔くように指示した。種子は播種の数日後に発芽し、半年後には、砂漠だった大地を一面の草原に変えた。すると、その周囲の地方から無数の蝗が飛来し、砂漠を覆った植物の葉を食べた。その植物の葉に含まれていた酵素は、その葉を食べた蝗の遺伝子の中で眠っていた遺伝情報を発現させ、それらの蝗を兵器に変えた。

ロナムは、六角軍諸国に住むすべての人間を食い尽せと蝗たちに命じた。六角軍諸国に雲霞のごとく襲来した蝗たちは、人間たちを次々と白骨に変えていった。六角軍諸国の人々は蝗を駆除するためにあらゆる手段を試みたが、それらの試みのうちで功を奏したものは皆無だった。

ガラキナの工作員たちは、蝗を兵器に変える植物を入手するために死力を尽した。多数の工作員が殉職したが、彼らの犠牲は無駄とはならなかった。死闘の果てに植物を入手した工作員はそれをガラキナの研究機関に届けた。研究者たちに残された時間はわずかだった。ガラキナ以外の六角軍諸国の国民はすでにその大多数が白骨となっており、ガラキナにおいても、海に面した都市に対する蝗たちの侵攻が始まりつつあった。

ガラキナの分子生物学者たちは蝗を兵器に変える植物を分析し、それに含まれる酵素の作用を解明した。ガラキナの政府は、兵器となった蝗を本来の形質に戻す酵素の製造を自国の製薬会社に大量に発注した。酵素を積んだ無数の航空機は、海を渡る蝗の大群の上空から酵素を散布した。蝗の大群はガラキナに飛来したが、彼らが襲ったのは人間たちではなく穀類の畑だった。

降臨暦二〇八八年、ガラキナの指導者たちはミテサクナに軍隊を派遣した。ロナムは兵器となった蝗を指揮して応戦したが、上空から散布された酵素によって蝗たちは本来の形質に戻り、ガラキナ軍の進撃を阻止することはできなかった。ガラキナ軍はミテサクナの全土を制圧し、クベリタルスとロナムを拘束した。拘束される直前、ロナムは天を仰ぎ、二千年前のサクタガラで使われていた言語で、「我が神よ、なぜ我を見捨てたまうのか」と叫んだ。

ガラキナ軍はマシタバに軍事法廷を開廷し、クベリタルスとロナムの戦争犯罪について審理した。軍事法廷の裁判官たちは全員一致で二人の被告に死罪の判決を下した。クベリタルスの処刑は判決の翌日にマシタバの刑務所で執行され、遺体は遺族に引き渡された。それに対して、ロナムに対する死刑の執行は留保され、彼は生きたままガラキナの研究施設に送られた。

ロナムが収容された研究施設には、医学、生物学、歴史学、宗教学などを専門とする研究者たちが招喚された。医学や生物学などの自然科学系の研究者たちに対しては、ロナムの身体を分析し、彼に対して死刑を執行した場合に起きることについて調査するという使命が与えられた。そして歴史学や宗教学などの人文科学系の研究者たちに対しては、二千年前にムナソビ教を創始した人物と彼とは同一であるか否かという問題について調査するという使命が与えられた。

自然科学系の研究者たちは、ロナムの身体に対する分析の結果、それが驚異的な自己治癒能力を持つということを見出した。彼の身体は、いかなる外傷を受けたとしても、いかなる疾病に罹患したとしても、手術や投薬を受けることなく自身の治癒能力のみによってそれを完治させることができるのである。医学の研究者たちは、彼の身体はおそらく老化に対してもそれを阻止する能力を持っており、したがって年齢が二千歳を超えているとしても不思議ではないと考えた。

人文科学系の研究者たちは、ロナムに対して様々な質問を試みた。質問は、ムナソビ教が創始された時代にサクタガラで起きた歴史上の出来事について、その時代におけるパリキネ教の教義や祭祀について、ムナソビ教の創始者の弟子たちについてなど、多岐に及んだ。ロナムは、いかなる質問に対しても淀みなく返答した。彼が持つ記憶は、歴史学や宗教学がこれまでに明らかにした事実と細部に至るまで一致していた。のみならず、彼の記憶は研究者たちがそれまで知らなかった事実に至るまでも明らかにした。

降臨暦二〇九二年、自然科学系の研究者たちはロナムの身体についての報告書をガラキナの政府に提出した。その報告書は、ロナムに対する死刑をいかなる手段によって執行したとしても、早ければ数分、遅くとも数十日のうちに彼は蘇生するであろうという結論で結ばれていた。その翌年には、人文科学系の研究者たちも報告書をガラキナの政府に提出した。その報告書は、戦争犯罪の容疑者としてミテサクナで拘束されたロナムと称する人物と、二千年前にムナソビ教を創始した人物とは同一である、という結論で結ばれていた。ガラキナの政府は、ロナムについての調査の続行を研究者たちに命じた。彼らに与えられた新たな使命は、ロナムの身体はいかにして自己治癒能力を獲得するに至ったかということを解明することだった。

自然科学系の研究者たちは、ロナムの身体が外傷や疾病を治癒する過程で、細胞を構成している分子がどのように変化するかということを分析した。そして人文科学系の研究者たちは、彼の身体が自己治癒能力を獲得したと思われる時期に、彼の身にどのようなことが起きたのかということについて、彼に質問した。

ロナムは、人文科学系の研究者たちからの質問に対して次のように答えた。

「私が十四歳のとき、神の御使いと称する者が私を地下墳墓に導き、石棺に入るようにと私に命じた。私が石棺に入ると、彼はその蓋を閉ざした。蓋は一時間ほどが過ぎたのちに開き、私は解放された。私が、怪我をしても病気になってもすぐに治ってしまう体となったのは、それ以降のことだ」

研究者たちは降臨暦一世紀ごろのサクタガラの地図をロナムに見せた。彼はその地図の一点を指差し、御使いが自分を導いた地下墳墓の入口はここだと告げた。さらに彼は地下墳墓の内部の構造を示す立体的な図を描き、自身が入った石棺の位置を示した。

ガラキナの政府は大規模な調査隊をサクタガラに派遣した。ロナムが描いた図は、地下墳墓の実際の構造とほぼ一致していた。調査隊は、彼が入ったと思われる石棺を携えてガラキナから帰還した。

ガラキナの政府は自然科学系の研究者たちに対して石棺の分析を命じた。物理学者たちは石棺を形成している物質について分析した。そして、それは外見的には石のように見えるが、実際には人間にとって未知の製法によって人工的に生成された物質であると報告した。生物学者たちは石棺が動物に与える効果について分析した。そして、動物を石棺に入れて蓋を閉ざし、五十二分以上経過したのちに石棺から出すと、その動物は自己治癒能力を獲得していると報告した。降臨暦二〇九八年からは人間を被験者とする実験も開始され、被験者となった人間は例外なく自己治癒能力を獲得した。

研究者たちは石棺が動物に与える物理的な作用について分析し、その作用を再現する装置の製作を試みた。しかし、石棺がその内部の空間に向けて発する作用は五十二分間のうちに高速で変化し、しかもその変化は個々の動物ごとに異なるものだったため、装置の製作は困難を極めた。

石棺の作用を再現する装置の試作機が完成したのは降臨暦二一一六年のことだった。その試作機は石棺と同様に動物に対して自己治癒能力を付与することができたが、そのために要する時間は八時間二十三分だった。工学系の研究者たちは、自己治癒能力を動物に付与するために要する時間を短縮することに心血を注いだ。その結果、その時間は六年後には七十七分にまで短縮された。

医療機器を製造する世界各国の企業は、自己治癒能力を動物に付与する装置の大量生産を開始した。世界各国の医療機関はその装置を導入し、自己治癒能力の獲得を希望する人々に対してそれを付与した。

降臨暦二一二九年、自己治癒能力をロナムに付与した石棺を保管および展示することを目的とする博物館がサクタガラに設立された。そしてロナムは、この博物館の館長として余生を送ることとなった。