[第三十二話]裏書

ミザム教の教皇庁は、『コトコギム』という文書をミザム教の正典として公認していた。

『コトコギム』は、ミザムという預言者によって再興暦三世紀に書かれた。そこに記されているのは、モクタルスという神がミザムに与えた啓示である。『コトコギム』によれば、モクタルスは宇宙を創造した神であり、人間に律法を授けた神であり、その律法を遵守する者に対して天国における永遠の生命を約束する神である。

ミザムは、伝道のために訪れていたトルスプルスという街で生涯を終えた。彼の遺骸はその街を見下ろす丘の上に葬られた。その後、彼の墓の上には壮麗な聖堂が築かれた。人々はそれを聖ミザム大聖堂と呼んだ。

聖ミザム大聖堂は、ミザム自身の筆になる『コトコギム』の写本を所蔵している。それは、普段は聖櫃に収められて祭壇の奥に安置されているが、ミザムの生誕祭の日には輿に乗せられてトルスプルスの街を巡行する。

幾世紀もの歳月の経過は、『コトコギム』の写本に対して虫食いなどの様々な損傷を与えた。聖ミザム大聖堂の主任司祭を務めるバルドヌクは、生誕祭の日に聖櫃からそれを取り出すたび、その痛々しい姿を見て悲嘆の思いを募らせていた。彼は、聖ミザム大聖堂を管轄する教区の司教に対して、写本の修復に要する費用の負担を何度も要請した。しかし、司教からは、修復の必要性は理解しているが、財政難のために費用を負担することはできない、という回答が判で押したように返ってくるばかりだった。

再興暦二二一四年は、ミザムの生誕二千年を祝うため、例年よりも一段と盛大な生誕祭を挙行することが計画されていた。それを五年後に控えた年、バルドヌクは、『コトコギム』の写本を修復するための費用を募金によって調達することを決意した。彼は、礼拝のために聖ミザム大聖堂に参集した会衆に対して、聖なる写本を修復するために喜捨をお願いしたいと呼びかけた。浄財は、四年後には修復に必要な金額に達した。二千年祭の前年の生誕祭が終了したのち、『コトコギム』の写本は、当代屈指の修復家の一人であるムロコナの手に委ねられた。

『コトコギム』の写本は袋綴じで製本されていた。ムロコナは綴り糸を慎重に抜き取ってそれを分解し、二つに折られた紙を広げて慎重に修復を進めていった。

修復を始めて間もなく、ムロコナは、写本を構成している紙はその両面に文章が記されているということに気づいた。裏面の文章もミザムによって書かれたものであることは、その筆跡から明らかだった。ムロコナは修復の作業を進めるとともに、紙の裏面に記された文章を別の紙に書き写していった。そして修復が完了したのち、裏面の文章を書き写した紙を製本し、『コトコギム裏書』という題名をその表紙に箔押しした。

バルドヌクは二冊の書物をムロコナから受け取った。一冊は美しく甦った『コトコギム』の写本であり、別の一冊は『コトコギム裏書』だった。彼は『コトコギム裏書』を読み、それがミザム教の根幹を揺るがすものであることを知った。彼は、裏書の存在を口外しないようにとムロコナに依頼し、大聖堂を管轄する教区の司教にこの問題を報告した。

モクタルスから啓示を与えられたミザムは、その言葉を紙に書き記した。そして彼はその写本を携え、彼の弟子たちとともに伝道の旅に出た。その旅の途上、トルスプルスに滞在していたとき、彼は病に倒れた。彼を診察した医師は、彼の余命がわずかであることを彼の弟子たちに告げた。キネナカという女神が新たな啓示をミザムに与えたとき、彼の死はすでに彼の目前にあった。彼は病苦にあえぎつつ、携えていた写本の裏面に啓示を書き記し、最後の文字を書き終えるとともに息を引き取った。

『コトコギム裏書』によれば、宇宙を創造した者はモクタルスではなくキネナカである。彼女は、宇宙を創造したのち、自分には睡眠が必要であると感じた。しかし彼女は、自分が眠りに就くと、その間に宇宙の秩序が乱れるのではないかと危惧した。そこで彼女は、自分が眠っている間の宇宙を管理させるため、自身から一柱の神を流出させた。それがモクタルスである。

モクタルスは、キネナカが眠りに就くや否や、彼女の手足を鎖で縛った。その鎖には、神が持つ能力の大半を封じ込める機能があった。モクタルスは、キネナカが創造した宇宙の中へ彼女を拉致し、人間たちが棲んでいる惑星の北極にある氷の中に彼女を幽閉した。

氷の中で目覚めたキネナカは自分を縛っている鎖を断ち切ろうと試みた。しかし、彼女が力を込めれば込めるほど、彼女の手足を縛っている鎖は太くなっていった。彼女は鎖を断ち切ることを断念し、宇宙で起こっていることに目を凝らした。すると、何かを創りつつあるモクタルスの姿が見えた。

モクタルスが創っていたのは地獄だった。彼は、地獄を完成させたのち、偽りの啓示をミザムに与えた。その啓示は、律法を遵守する者に対して天国における永遠の生命を約束していた。しかし、天国という場所はどこにも存在しなかった。すべての死者の魂は、律法を遵守したか否かにかかわりなく、地獄に堕されて責め苦を受けるのだった。

『コトコギム裏書』についての報告をバルドヌクから受け取った司教は、聖ミザム大聖堂に赴き、裏書を精読した。そして、この問題を教皇に報告するため、裏書の写本を携えて教皇庁へ向かった。教皇はすべての枢機卿を極秘裏に招集した。そして、教皇庁の奥まった部屋に彼らを留め置き、裏書の写本を回覧した。

枢機卿たちの間で写本が一巡したのち、教皇枢機卿たちは円卓を囲んだ。枢機卿たちは、裏書を虚偽とみなす者と真実とみなす者に二分された。虚偽とみなす者たちの一人は、もしも裏書が真実であるとするならば、ミザムは啓示を受けた直後に逝去したのであるから、別の預言者に同じ啓示が与えられなければならなかったはずであるが、ミザム以外に預言者がいるという話は聞いたことがない、と論拠を述べた。それに対して、裏書を真実とみなす者たちの一人は、キネナカはミザムに啓示を与えたのち再び眠りに就き、彼がその直後に逝去したことを知らないに違いないと反論した。

教皇は、裏書を虚偽とみなす者たちの弁論も、それを真実とみなす者たちの弁論も、単なる推測を述べたものにすぎないと考えた。裏書が虚偽であるとしても、真実であるとしても、それを証明する明白な証拠が発見されない限り、我々は二度と枕を高くして眠ることはできないであろうと彼は思った。そこで彼は、調査隊を北極へ派遣してはどうかと枢機卿たちに提案した。枢機卿たちの大半はその提案に賛意を示し、それは実行に移されることとなった。

北極に派遣された調査隊がそこで見たものは、鎖で縛られ、氷の中で眠り続ける女神の姿だった。調査隊からの報告を受けた教皇は、『コトコギム裏書』を公表した。そして、今後は『コトコギム』ではなくその裏書を正典として公認するという内容の回勅を発布した。そしてさらに、氷を掘削するための機械と人員を北極に送り込むことを世俗君主たちに要請した。

人間たちがキネナカを救出しようとしていることを知ったモクタルスは、天使を創造し、彼女の救出を阻止せよとその天使に命じた。氷を掘削する作業は天使の妨害によって中断を余儀なくされた。人間たちは天使と互角の能力を持つ兵器を開発して天使を撃退し、氷の掘削を再開した。モクタルスは改良型の天使を創造し、再び氷の掘削を中断に追い込んだ。人間たちも兵器を改良し、再び天使を撃退した。

天使による作業の妨害と兵器による天使の撃退は、何度も繰り返された。しかし、氷に穿たれた穴は徐々に深さを増し、ついにはキネナカに到達した。人間たちは彼女を縛っている鎖を最先端の技術を駆使して断ち切った。

キネナカは、鎖から解放されたことによって自分の中に再び力が甦ってくるのを感じた。彼女は多数の天使を創造し、モクタルスの捕縛を彼らに命じた。天使たちはモクタルスを捕縛し、彼自身が創った地獄に彼を堕した。

キネナカは天国を創り、地獄で責め苦を受けていた死者の魂を天国へ移した。そして彼女は、すべての人間たちに対して、天国における永遠の生命を約束した。