[第三十四話]数学者

神が最初にネビラ山に降臨したのは、瑞星暦二八一年のことだった。

ネビラ山の麓にある村の人々は、見知らぬ男が山から下って来るのを見た。名前を尋ねると、その男はメルテスと名乗った。その名前は、数百年前に滅亡した帝国の言語で「数式を書く者」を意味する言葉だった。村人たちは彼を夕餉に招き、一夜の宿を提供した。

翌朝、メルテスは村の家々を巡った。彼はそれぞれの家で、夕餉と宿の提供に対する謝辞を述べるとともに、この家に病人はいないかと尋ねた。病人がいるという返答を聞くと、彼はその病人との面会を求め、病人の頭に片手を軽く載せた。すると、その病人の病はたちどころに癒えた。

村に住むすべての病人の病を癒したのち、メルテスは村人たちに別れを告げ、トビスバスという街へ向かった。その街は、東の商人と西の商人とが交易をする場所であり、多くの人々でにぎわっていた。

トビスバスでも、メルテスは病人たちの病を次々と癒していった。さらに彼は、街の中央にある広場に立ち、人々に教えを説いた。彼が説いた教えは次のようなものだった。

「私は神である。この宇宙は私が書いた数式が評価される過程である。今から二千年後に私は再び降臨するであろう。そして私は生きている人間をことごとく死滅させるであろう。そののち、すべての死者は復活し、彼らは私による裁きを受けるであろう。私が神であることを信じる者は天国に迎えられて楽しく暮すことになるが、それを信じない者は地獄に堕されて耐え難い苦しみを味わうことになるであろう」

メルテスは、自分の教えに共鳴した者たちを自分の弟子にした。そして広場で語った教えよりもさらに詳細な教えを弟子たちに説いた。それはきわめて難解な教えであり、それを即座に理解した弟子は少数だった。メルテスは、すべての弟子に教えが理解できるように、様々な譬え話を駆使することによって教えを噛み砕いて説明した。

メルテスは、弟子たちが自分の教えを理解したことに満足すると、この教えを全世界に宣べ伝えよと弟子たちに命じ、そののち忽然と姿を消した。弟子たちは神の消失を嘆き悲しみ、戻ってきてほしいと天を仰いで訴えた。しかし、戻ってくる見込みがないと分かると、命じられたとおり、宣教のために世界の各地へ旅立っていった。

人々は、メルテスの弟子たちが語る教えをメルテス教と呼んだ。弟子たちは、人々が従来から崇拝してきた土着の神々は実在せず、実在する神はメルテスのみであると説いた。人々はメルテス教を悪魔の教えとみなし、メルテスの弟子たちに苛烈な迫害を加えた。

しかし、瑞星暦五世紀から六世紀にかけて、土着の神々に対する信仰を捨ててメルテス教に改宗する者は、少しずつ増加していった。さらに、各国の国王たちもメルテス教に関心を抱いた。彼らは、自らの領土を統治する上で、地域ごとに異なる神々が崇拝されている状態よりも、すべての自国民が同一の神を崇拝している状態のほうが望ましいと考えたのである。七世紀の初頭には、多くの国々が相次いでメルテス教を国教として採用した。それらの国の国王たちは、自らの権威はメルテスから授けられたものであると主張した。

多くの国々の町や村には、メルテスに祈りを捧げるための聖堂が建設された。人々は五日ごとに聖堂に集まり、神に祈りを捧げ、神を賛美する歌を歌い、司祭の説教を聴いた。メルテス教は多くの国々で生活の習慣として定着した。しかし、それとは裏腹に、メルテスに対する信仰は少しずつ人々の心の中から失われていった。

瑞星暦十六世紀になっても、多くの国々の人々は依然としてメルテス教の習慣を守って暮していた。しかし、メルテスが神であるという信仰を持つ者は、ほとんど姿を消していた。したがって、国王たちの権威がメルテスから授けられたものであるという主張は、すでに効力を失っていた。国王による統治に不満を覚える人々は王制を打倒し、共和国の樹立を宣言した。このようにして、十七世紀を迎えるまでに、ほとんどの国は王政から共和制へ移行した。王制を存置する国々でも、国王の統治権は名目上のものとなり、議会が実質的な意思決定機関となった。

瑞星暦二二八一年、メルテスはネビラ山に再臨した。麓の村の人々は、二千年前と同様に夕餉と宿を彼に提供した。翌朝、彼は病人たちの病を癒し、そののちトビスバスへ向かった。

メルテスはトビスバスでも多くの病人たちの病を癒した。数日後、彼は広場に立ち、次のように人々に語った。「私はこれから、生きている人間をことごとく死滅させるであろう。そののち、すべての死者は復活し、私による裁きを受けるであろう」

しかし、二千年前とは違い、足を止めて彼の話に耳を傾ける者はほとんどいなかった。その理由は、メルテスを名乗って怪しげな教団に人々を勧誘しようとする者が、彼よりも前に何人も出現していたからである。しかし、医療関係者たちは彼に強い関心を抱いた。なぜなら、彼による病気の治療は、それまでの医学の常識を覆すものだったからである。

トビスバスにある公立病院の院長であるセリケミナは、メルテスが宿泊している木賃宿を訪ね、自分の病院に入院している患者たちとの面会を彼に懇願した。メルテスはその要請に応じ、院長とともに病院へ向かった。

病院に入院している患者たちはメルテスの来訪を心から歓迎した。メルテスは重篤な患者から順番に彼らの病気を癒していった。すべての入院患者が退院したのち、セリケミナは、「あなたはどのようにして病気を治療しているのですか」とメルテスに尋ねた。メルテスは、宇宙というものは数式が評価される過程であるということ、その数式は自分が書いたものであるということ、宇宙で生起する様々な現象は、新たな数式を書くことによって自由に修正することが可能であるということなどを彼女に説明した。

メルテスは一つの数式を紙に書いた。そして、「風邪の患者の頭に片手を載せ、この数式を頭の中に思い浮かべれば、その患者の風邪はたちどころに治るであろう」とセリケミナに教えた。彼女は風邪を引いて来院した患者の一人を診察室に呼び入れ、教えられたことを試した。すると、その患者の体温は平熱に戻り、呼吸器系の炎症も消失した。

セリケミナは、風邪以外の病気を治療する数式も教えてほしいとメルテスに懇願した。それに対して彼は、「風邪を治す数式をあなたに教えたのは、そうすることによって、私が神であることをあなたが信じるようになるだろうと思ったからである。私には、しなければならないことがある。ほかの数式をあなたに教えている時間はない」と答えた。そして彼は病院から去っていった。

翌日、メルテスはトビスバスの広場に立ち、次のように語った。「裁きの日が迫りつつある。その日に先立って、すべての人間は死滅するであろう。しかし、恐れる必要はない。私が神であることを信じよ。そうすれば、天国における幸福な生活が保証されるであろう」

メルテスはその日のうちにトビスバスから姿を消した。その四日後、トビスバスは激しい地震に襲われ、ほとんどすべての住民が犠牲となった。

次にメルテスが姿を見せたのはクラケミトスという街だった。そこでも彼は、裁きの日は近いと人々に語り、その日のうちに姿を消した。その四日後、クラケミトスから七里ほど離れた位置にある火山が噴火し、その火砕流はクラケミトスを壊滅させた。

そののちもメルテスは、人口の多い街への出現を繰り返した。彼が街に出現した四日後には、必ず何らかの天変地異がその街を壊滅させた。

人類は滅亡の危機に瀕していた。生き残りたいと願う人々の期待を背負ったのは数学者たちだった。なぜなら、メルテスがセリケミナに与えた数式が、人類が生き延びる手段を見出すための唯一の手掛りだったからである。数学者たちは、風邪を治す数式がどのような規則によって書かれたものなのかということを解明するために、知恵を絞り、議論を重ねた。その結果、数式の構造を支配している規則は、少しずつ明らかになっていった。そして規則の解明は、人間が望む現象を生起させる数式を書く技法の確立に道を開いた。

数学者のうちで勇気を持つ者たちは、メルテスが出現した街に乗り込み、天変地異から街を守る数式を頭の中に思い浮かべた。その試みは、多くの場合は失敗に終わったものの、成功する場合もあった。人類は、命を賭した数学者たちの献身に一筋の光明を見出した。メルテスの数式について解説する講座が多くの大学に開設され、それを受講する学生たちは大学の講堂を満杯にした。

数学者たちはその後も、メルテスの数式の構造を支配している規則についての研究を進めた。天変地異から街を守ることに成功する確率は、少しずつ上昇していった。しかし、メルテスが街に出現する頻度もまた上昇の一途をたどっていた。何らかの起死回生の策を見出さない限り、人類の滅亡は時間の問題だった。

タキサラという数学者は、人間が存在する宇宙からメルテスが存在する宇宙へ人間を移動させる数式を書くことはできないかと考えた。来る日も来る日も彼女はその問題について考え続けた。そしてある日の朝、その問題を鮮やかに解決する方法を発見した。彼女はメルテスが存在する宇宙へ自身を移動させる数式を頭の中に思い浮かべた。次の瞬間、彼女の目の前の光景が変化した。そこは、実験器具が雑然と置かれた部屋の中だった。

その部屋の中には一人の男がいた。その男は机の上に置かれた小さな装置に数式を入力しているところだった。彼は人が近づく気配を背後に感じて振り返った。そして、見知らぬ女がそこに立っていることに気づき、「君は何者だ」と尋ねた。

タキサラは振り向いた男の顔を見て、その男がメルテスであることを知った。彼女は神に言った。「私は、あなたが創った宇宙から来た数学者で、タキサラという者です。人類を滅ぼすのは考え直していただけませんか」

メルテスは彼女の言葉を信じなかった。自分が創った宇宙から自分が存在する宇宙へ人間が移動してくるということが可能であるとは思えなかったからである。数式によって宇宙を創造するという自分の研究の成功を妬んだ研究者が、研究を妨害するために自分を騙そうとしているのだろうと彼は考えた。そして彼は、「申し訳ないが、考え直すつもりはない」と言って、数式の入力を再開した。

タキサラはメルテスの頭に片手を載せ、神を金縛りにする数式を頭の中に思い浮かべた。そして、金縛りになったメルテスから装置を奪い、彼が入力しようとしていたものとは異なる数式をその装置に入力した。それは、すでに死んでいるかまだ生きているかにかかわらず、その装置の内部に創られた宇宙の中にいるすべての人間を、その装置の外に存在する宇宙、すなわちメルテスが存在する宇宙へ移動させる数式だった。

すべての人間が装置の中から外へ移動したことを確認したのち、タキサラは装置の電源を切った。そして窓に歩み寄り、建物の外を見た。街は人間たちで埋め尽されていた。

メルテスが存在する宇宙へ移動した人間たちは、広い土地を求めて移動を開始した。タキサラは彼らの喉の渇きを癒すために雨を降らせ、彼らの空腹を満たすために食べ物を降らせた。