[第三十五話]改憲

メキゴタという国の憲法は、信教の自由と政教分離を定めた条項を持っていた。その国の人々が信仰している宗教には様々なものがあったが、それらのうちで、信者数が国の人口の一割を超えるものは一つとして存在しなかった。

トケリマというメキゴタの地方都市に、ギモクという者が住んでいた。新星暦一七三三年、彼は、自身が作った新しい宗教の布教を開始した。それは、「我々の宇宙はダコルという神が創造したものであり、その神に対する礼拝はすべての人間の義務である」という教義を持つ宗教だった。ギモクはその宗教を単に「真理」と呼んだが、人々はそれを「ギモク教」と呼んだ。

ギモクが布教を開始した年の五年後には、ギモク教に帰依する人々は三千人を超えた。彼らは教団を設立し、各地に礼拝所を建設し、ギモクの教えについて解説する書籍を刊行した。その解説書は、宗教書としては異例とも言えるほどの売行きを示した。解説書を読んで興味を覚えた人々の多くは、自発的に礼拝所の門を叩いた。このようにして、ギモク教に帰依する人々は増加の一途をたどった。

ギモクは新星暦一七六五年に死去した。信者たちはギモクの肖像画を掲げた祭壇を各地の礼拝所に設置した。生前のギモクは常々、「私はあくまで人間であって神ではない」と語っていたが、彼の死後、彼の神格化は徐々に進んでいった。新星暦一七七八年、教団の幹部たちはトケリマにある教団の本部において会議を開き、「ギモクはダコルの息子であり、宇宙の創造においてダコルの右腕として働いた神である」という教義をギモク教に追加することを決議した。

ギモク教に帰依する人々はその後も増え続け、新星暦一七八七年には信者数はメキゴタの人口の一割を超えた。その頃から、教団の幹部たちはギモク教の国教化を視野に入れるようになった。それを実現させるための方策として、彼らは真理党という政党を結成した。それは表向きは世俗的な政策を掲げる政党だったが、その真の目的はギモク教の国教化だった。

新星暦一七九二年に実施された国会議員選挙において、真理党はすべての選挙区に候補者を立てた。しかし、それらの候補者のうちで当選した者は皆無だった。その後も真理党は、四年ごとの国会議員選挙のたびに、すべての選挙区に候補者を立て、すべての選挙区で敗北する、ということを繰り返した。真理党が初めて国会の議席を獲得したのは、六回目の挑戦となった新星暦一八一二年のことである。その年に実施された国会議員選挙においては、真理党の候補者のうちの三名が当選を果たした。その後も真理党は、国会における議席を選挙のたびに増やしていった。

ギモク教の信者数は、新星暦一八一九年にはメキゴタの人口の三割を超え、その七年後には四割を超えた。新星暦一八二八年に実施された国会議員選挙において、真理党は単独で過半数議席を獲得した。

真理党が内閣を組閣した直後の本会議において、野党の議員の一人は、ギモク教の教団と真理党との関係について首相に問い質した。首相はその質問に対して、ギモク教の教団は真理党の設立母体に過ぎず、教団の意向によって党の政策が左右されることはないと答弁した。

ギモク教の信者数はその後も増加の一途をたどった。新星暦一八三九年には、信者数はメキゴタの人口の六割を超えた。教団の幹部たちは、真理党の真の目的を明らかにすべき時が来たと判断した。新星暦一八四〇年に実施された国会議員選挙において、真理党はギモク教の国教化を公約として掲げた。そして選挙権を持つすべてのギモク教の信者に向けて、真理党の候補者への投票を呼びかけた。真理党の当選者は議席の三分の二を上回った。

真理党憲法の改正案を作成し、それを公表した。その改正案は、信教の自由と政教分離を定めた条項を削除し、ギモク教がメキゴタの国教であることを定めた条項を追加するものだった。メキゴタの憲法の改正は、国会議員の三分の二の賛成によって国会が発議し、国民投票での過半数の賛成票によって成立する。真理党が作成した憲法の改正案は、その手続きを経て成立し、その半年後に施行された。

憲法が改正されたのち、真理党の内閣は、ギモク教の国教化を具体化する法案を矢継ぎ早に国会に提出していった。それらの法案は、圧倒的な賛成票によってことごとく成立した。その結果、ギモク教の礼拝所での定期的な礼拝はすべての国民の義務となり、ギモク教以外の宗教活動は全面的に禁止され、すべてのギモク教の礼拝所は国または地方自治体の予算によって運営されることとなり、初等中等教育においてはギモク教の教義に関する科目が必修となり、ギモクが降誕した日は国民の祝日となった。

ギモク教以外の宗教活動を禁止する法律が成立したことによって、そのような活動は警察官による取締りの対象となった。違反した者は逮捕され、懲役刑または禁固刑が科せられた。ギモク教以外の宗教を信仰する人々は、自分たちが共有する施設を避け、個人の住宅を拠点として活動を続けた。しかし、捜査官の潜入や密告によって情報が漏れ、非合法の宗教活動が摘発される事例は枚挙に遑がなかった。

ギモク教以外の宗教を信仰する自由を求める人々は、自由宗教同盟という政治結社を結成し、信教の自由と政教分離を求めて各地で集会を開いた。彼らの集会には多くの賛同者が集結したが、彼らの声は多数派のギモク教徒たちには届かなかった。

ダコルやギモクに対する礼拝が強制されることに反感を抱く無神論者たちも、無神論者同盟という政治結社を結成し、礼拝を強制されない自由を求めて活動を開始した。彼らの活動は、その当初においては街頭での演説などの穏やかなものだった。しかしその後、彼らの活動はしだいに先鋭化していった。彼らは爆発物によって礼拝所を次々と破壊し、その度に犯行声明を公表した。警察は無神論者同盟の活動家を検挙するために空前の規模で捜査官を動員したが、捜査は遅々として進展しなかった。

無神論者同盟が公表する犯行声明には、必ず次のような主張が含まれていた。「もしもダコルとギモクが実在する神であり、宇宙を創造することができるほどの能力を持つ者であるならば、なぜ彼らは礼拝所の破壊を阻止しないのか。我々による礼拝所の破壊が成功するのは、彼らが実在する神ではないか、あるいは実在はするが礼拝所の破壊を阻止する能力さえ持たない無能な神であることの証明である」

その主張に対するギモク教の教団の公式見解は次のようなものだった。「ダコルとギモクは、人間と人間との争いは当事者間で解決せよと述べておられる。礼拝所の破壊事件はそのような争いに該当するものであり、我々は神による解決を期待してはいない」

礼拝所が破壊される事件は、その後も跡を絶たなかった。無神論者同盟は事件のたびに犯行声明を公表していたが、やがて、実際には無神論者同盟は関与していないのではないかと疑われる事件も発生するようになった。関与が疑問視された根拠は、礼拝所の破壊に使用された手段の特異性である。礼拝所を破壊する手段としては、当初は爆発物のみが使われていたが、のちには、いかなる手段による破壊であるか判然としない事件も発生するようになったのである。礼拝所は、ある事件では圧縮されて立方体の塊となり、別の事件では液体化して水溜りとなり、さらに別の事件では数万尺の高さにまで浮揚したのちに落下して粉微塵となった。それらの事件を目撃した人々は、これはもはや人間の仕業ではないであろうと異口同音に語った。

新星暦一八五八年のある日、トケリマにある礼拝所に炎の指が出現した。炎の指は礼拝所の壁に次のような警告を書いた。「この礼拝所は間もなく崩壊するであろう。命が惜しい者は速やかにこの建物から避難せよ」

ダコルとギモクに礼拝を捧げていた人々は、礼拝所の職員たちの誘導に従って避難を開始した。

礼拝所の責任者は、「お前は何者だ」と炎の指に尋ねた。

炎の指は次のように壁に記した。「私は無神論という概念が実体化した者だ。無神論は、真理であるにもかかわらず、この国ではそれを信ずる者があまりにも不当に扱われている。私は、そのような状況を改善するため、概念という自身の限界を超えて実体化したのだ」

礼拝所から避難した人々は、大地に巨大な裂け目が走るのを目撃した。威容を誇った建築物はその裂け目に飲み込まれ、無数の破片に分解しつつ底知れぬ深淵に向かって落下していった。

メキゴタのすべての報道機関は、炎の指が壁に記した言葉についての報道を自粛する協定を結んだ。しかし、その言葉は人々の口から口へ伝えられ、数日後には、ほとんどの国民の知るところとなった。その言葉は、ギモク教から無神論へ改宗する人々を大量に発生させた。

実体化した無神論による礼拝所の破壊は、その後も終息する気配を見せなかった。政府は無神論に対する弾圧を強化せよという通達を各省庁に発令したが、弾圧の強化は、ギモク教から無神論への改宗を抑止する効果をほとんど持たなかった。

新星暦一八六〇年に実施された国会議員選挙において、真理党の候補者はことごとく落選した。国会は憲法の改正を発議した。その改正案は、ギモク教がメキゴタの国教であることを定めた条項を削除し、信教の自由と政教分離を定めた条項を復活させるものだった。国民投票が実施され、改正案は圧倒的多数の賛成票を得て成立した。