[第三十八話]申請

トメナマという国では、古来より、神々が存在するということを大多数の人々が信じていた。

有史以前の時代から、トメナマの各地には神々を祀る神殿が鎮座していた。信仰を持つ人々は足繁く神殿に参拝し、親しい人々や自身の幸福を神々に祈願した。

一部の人々は神々について学術的に研究することに情熱を傾けた。そのような人々によって体系化された神々についての学問は、神学と呼ばれた。白狼暦二世紀ごろには、神学を修めることは神殿で神々に仕える神職となるための必須の条件とされるようになった。白狼暦五世紀ごろにはトメナマの各地に大学が設立されたが、それらの多くに神学部が設置されたことは自然の成行きだった。

白狼暦十四世紀の時点においても、トメナマの国民の大多数は依然として神々の存在を信じていた。しかし、そのころから、神学を学問とみなすべきではないという主張が公然と語られるようになった。たとえば、白狼暦一三四六年に設置された高等教育に関する審議会の会合において、委員の一人である物理学者のゼノテドルスは次のように発言している。

「いかなる学問も、それを探究する手段は第三者による検証が可能なものでなければならない。しかるに神学における探究の手段は内省のみであり、第三者がそれを検証することは不可能である。したがって、神学が学問の一分野であると考えることはできない」

そのような主張に対して、神学は学問であるとする立場から論陣を張る神学者はまったく出現しなかった。神学者たちにとっては、神学が学問であろうとなかろうと、神学部への入学を希望する若者たちが存在する限り、自分たちの地位が安泰であることに変化はなかったからである。

神学は学問ではないという主張に対する反論を提示したのは、神学者ではなく物理学者だった。サマトルム大学理学部教授のムニタケルマは、白狼暦一三四九年に発表した論文の中で、霊量という物理量の存在についての仮説を提示し、それを測定する手段を確立することによって神学は学問としての資格を得るであろうと述べた。しかし、霊量を測定することのできる装置を作るための技術は、その当時にはまだ存在していなかった。

技術の進歩によって霊量の測定が可能となったのは、白狼暦一三七二年のことだった。その年、セモビナ大学理学部教授のキヌリタミツは、自身が試作した装置によって霊量を測定する実験を成功させた。彼はさらに、霊量の単位を物理量の単位系の中に位置付け、霊量に関する仮説を提示したムニタケルマに因んで、その単位をムニタと名付けた。

あらゆる物体は霊波と呼ばれる波動を周囲に放射している。霊波の強さは物体が持つ霊量に比例する。キヌリタミツが試作した装置は、物体が放射する霊波を検出することによって、その物体が持つ霊量を測定するものだった。彼はその装置を霊量計と名付けた。そして、霊量計の原理と製造法を詳述した論文を神学会の機関誌に寄稿した。

キヌリタミツの論文は多くの神学者によって読まれた。彼らの多くは、霊量を測定する実験を自身の手で試みたいと望んだ。その結果、多くの町工場が得体の知れない装置の製造を受注することとなった。

神学者たちは自分たちの周囲にある様々な物体に霊量計を向けた。通常の物体が持つ霊量は三ムニタから十八ムニタまでの範囲内だった。動物は高等なものほど霊量が高く、魚類や爬虫類が三百ムニタ前後であるのに対して、哺乳類は千ムニタを超えるものが多かった。そして、人間の霊量は四千ムニタから六千ムニタまでの範囲内だった。さらに神学者たちは、古来より神が宿っているとされる巨石や巨樹、そして神殿の最奥に安置された御神体にも霊量計を向けた。それらの物体が持つ霊量は、低いもので数万ムニタ、高いものになると百万ムニタを超えるものもあった。

白狼暦一三七三年から一三七六年にかけて、霊量計を使った研究に基づく論文が大量に書かれ、神学会は数度に渡って機関誌の臨時増刊号を発行した。しかし、その時期を過ぎると、霊量を測定した結果に基づく論文は急速に減少した。霊量の測定によって解明することのできる問題がほぼ解明し尽されたというのがその理由だった。

個々の神殿に祀られている神には名前が与えられている。たとえば、クミルネ神殿やナサゴムロ神殿に祀られている神はキタデモスという名前で呼ばれ、タカマトキ神殿やセベラモ神殿に祀られている神はケムデミナという名前で呼ばれる。霊量計による霊量の測定は、同一の名前を持つ神を祀っている神殿にあるそれぞれの御神体は霊量が等しいということを明らかにした。しかし、異なる名前で呼ばれるにもかかわらず霊量に明確な差がない多数の神々が存在しており、それらは何が異なっているのかという問題は依然として謎のままだった。コリメスタ大学理学部教授のルカドキサは、白狼暦一三八二年に発表した論文の中で、神の名前の相違は霊波の波形の相違を反映しているという仮説を提示した。しかし、霊波の波形を観測することのできる装置を作るための技術は、その当時にはまだ存在していなかった。

技術の進歩によって霊波の波形の観測が可能となったのは、白狼暦一四〇三年のことだった。その年、タシケマ大学理学部教授のメテラボスムは、自身が試作した装置によって霊波の波形を観測する実験を成功させた。彼はその装置を霊波観測器と名付けた。そして、霊波観測器の原理と製造法を詳述した論文を神学会の機関誌に寄稿した。

メテラボスムの論文を読んだ神学者の多くは、霊波観測器の製造を町工場に発注した。そして彼らは、自分たちの周囲にある様々な物体に霊波観測器を向けた。それらの物体が周囲に放射している霊波の波形は、物体の種類ごとに異なっていた。筆には筆の波形があり、書物には書物の波形があり、時計には時計の波形があった。動物についても同様に、その種類ごとに波形が異なっていた。亀には亀の波形があり、猫には猫の波形があり、人間には人間の波形があった。さらに彼らは、神殿の最奥に安置された御神体にも霊波観測器を向けた。彼らが観測した波形は、神の名前の相違は霊波の波形の相違を反映しているというルカドキサの仮説を実証するものだった。

サミトネカは、白狼暦二六三年に創建された、ガラクテトスという神を祀る神殿である。白狼暦一四〇七年、サミトネカ神殿に安置されている御神体に霊量計を向けたモルデガリマ大学神学部教授のタキテムナは、その針が不可解な値を指していることに気付いた。他の神殿に祀られているガラクテトスの霊量が四十八万六千ムニタであるのに対して、サミトネカ神殿の御神体の霊量は八十四万三千ムニタだったのである。彼女はさらに霊波観測器をその御神体に向けた。それが表示した波形は、ガラクテトスを祀っている他の神殿の御神体とはまったく異なるものだった。彼女は神学者たちが報告した神々の霊波の波形とサミトネカ神殿の御神体の波形とを照合し、一致するものを探し求めた。しかし、サミトネカ神殿の御神体の波形は、すでに知られているいかなる神の波形とも一致しなかった。

タキテムナはサミトネカ神殿が所蔵する古文書を渉猟し、その神殿に安置されている御神体の来歴を調べた。その結果、サミトネカ神殿の御神体は、創建に際して新しく製造されたものではなく、白狼暦二五〇年代に廃絶したシマモヌリスという神殿の御神体を再利用したものである、ということが判明した。シマモヌリスは、ガラクテトスではなくロムナミタブという神を祀る神殿だった。

御神体を再利用して、以前とは異なる名前を持つ神を祀るためには、その御神体から神を抜く儀式と、それに神を宿らせる儀式を執行する必要がある。タキテムナは、サミトネカ神殿の御神体は、シマモヌリス神殿の御神体からロムナミタブを抜かずにガラクテトスを宿らせたため、二柱の神が同居する状態になっているのではないかと推測した。

タキテムナは、ロムナミタブを祀っているいくつかの神殿を訪ね、その御神体の霊量を測定し、霊波の波形を観測した。それらの御神体の霊量はいずれも三十五万七千ムニタであり、それはサミトネカ神殿の御神体の霊量とガラクテトスの霊量との差に等しかった。さらに彼女は、ロムナミタブの波形とガラクテトスの波形とを合成したものを求めた。それはサミトネカ神殿の御神体の波形と一致した。

タキテムナは、白狼暦一四〇九年に発表した論文の中で、一座の御神体に二柱の神を宿らせると、霊量はそれらの神の霊量を加算したものになり、霊波の波形はそれらの神の波形を合成したものになるという仮説を提示した。

タキテムナの論文を読んだ神学者たちは、彼女が提示した仮説を検証するためには、一座の御神体に二柱の神を宿らせ、霊量を測定し、霊波の波形を観測する実験を実施する必要があると考えた。しかし、御神体に神を宿らせるためには、神殿の監督官庁である祭祀庁の許可を得る必要があった。神学者たちは実験の許可を祭祀庁に申請した。しかし、祭祀庁は神学者たちの申請を却下した。申請が却下された理由は、実験のために御神体に神を宿らせるというのは神に対して不敬であると祭祀庁の官僚たちが判断したからである。神学者たちは実験の必要性を訴える嘆願書を何度も執拗に祭祀庁に提出した。彼らの嘆願が実って申請が受理されたのは、白狼暦一四一七年のことだった。

タキテムナの仮説を検証するための実験は、白狼暦一四一八年にザカドセネマ大学神学部の講義室で実施された。儀式を執行したのは、クロゴモスという神学者だった。彼は、製造されたばかりの青銅の鏡にガミナサムスという神を宿らせ、それに引き続いて同じ御神体にヌリクラモルという神を宿らせた。鏡に向けられた霊量計の針は、それらの神の霊量を加算した数値を指していた。そして霊波観測器が表示した波形は、それらの神の波形を合成したものに一致していた。

タキテムナの仮説が実験によって裏付けられたという報告は、神学者たちの間に大きな論争を巻き起こした。それは、一座の御神体に宿らせることのできる神の柱数あるいはその霊量に限界はあるのかという問題をめぐる論争だった。論争は、限界はあると主張する神学者たちの内部でも、それは柱数の限界であると主張する者たちと霊量の限界であると主張する者たちとの間で繰り広げられた。

限界はあると主張する神学者たちは、論争に終止符を打つためには、限界に到達するまで一座の御神体に神々を宿らせる実験を実施する必要があると考えた。彼らはその実験の許可を祭祀庁に申請した。しかし、祭祀庁はその申請を即座に却下した。申請が却下された理由は、その実験に伴う危険性が一部の神学者たちによって指摘されていたからである。神学者たちは実験の必要性を訴える嘆願書を何度も執拗に祭祀庁に提出したが、官僚たちの態度を軟化させることはできなかった。しかしその後、実験の許可を求める運動が、神学者のみに留まらず神職たちにまで拡大したことによって、祭祀庁の内部でも、実験を許可すべきであるという意見が徐々に勢力を拡大していった。白狼暦一四三五年、祭祀庁は、実験の申請を受理したと神学者たちに通知した。

祭祀庁が編纂する『神殿名鑑』という刊行物には、祭祀庁の管轄下にあるすべての神殿について、その由緒や祭神の霊験などが記載されている。その刊行物の索引の巻には、事項索引や神殿名索引とともに、神名索引が収録されている。白狼暦一四二六年に発行された『神殿名鑑』第六十八版の神名索引には、七千三百五十九柱の神々の名前が記載されていた。一座の御神体に宿らせることのできる神の柱数あるいはその霊量には限界があると主張する神学者たちは、神学者神職が交代で儀式を執行し、限界に到達するまで、その索引に記載されている神々を一座の御神体に宿らせる、という実験の計画を立てた。これが、ミセケニタ実験という名称でトメナマの歴史に刻まれることとなった実験である。

実験場として選ばれたのは、ミセケニタ大学神学部の講義室だった。実験は、御神体となる青銅の鏡が大学に納品された翌日に開始された。トメナマの各地からミセケニタ大学に集結した神学者たちや神職たちは、昼夜を問わず交代で儀式を執行し、『神殿名鑑』第六十八版の神名索引に記載されている順序のとおりに神々を御神体に宿らせていった。

実験の開始から六十四日目、二千三百八十七柱の神が御神体に宿ったとき、その御神体の霊量は十億ムニタを超えた。この柱数と霊量は、一座の御神体に宿らせることのできる神の柱数あるいはその霊量には限界があると主張する神学者たちの多くが予想していた限界を大幅に超えるものだった。それらの神学者たちが自説を撤回したのちも、実験は当初の計画に沿って進められ、神の柱数と霊量は日毎に増加していった。

事故は、実験の開始から百九十七日目に起きた。その日、ミセケニタ大学が校舎を置くサザメストラという地方都市に、白色の光を放つ巨大な物体が忽然として出現した。その物体は、ミセケニタ大学の位置を中心とする半径三里弱の球であり、上の半球のみが地上に姿を見せていた。物体の内部に閉じ込められていると推定される二十万人の住民は、いかなる通信手段による呼びかけにも応答しなかった。彼らを救出するため、物体に穴を穿つ試みが開始されたが、いかなる工作機械も、その物体にかすり傷一つ負わせることができなかった。

物体は、白色の光のみならず、強い霊波をも放射していた。物体が持つ霊量は三十億ムニタを超えていた。物体の外にいる神学者たちは、実験のために一座の御神体に宿らせた無数の神々が実体化することによってこの物体が出現したのであろうと推測した。

事故の発生から四日後、出現したときと同様、物体は忽然として消滅した。物体が存在していた場所に残されたものは半球状の穴のみだった。物体の内部に閉じ込められた人々の行方は、杳として知れなかった。

神学者たちは、神はいかなる原理に基づいて実体化するのかという問題について様々な仮説を提示した。彼らは、それらの仮説を検証するための実験の許可を祭祀庁に申請した。しかし祭祀庁は、ミセケニタ実験ののち、神学者による実験の申請はいかなるものであろうと却下するという方針を堅持し続けた。