[第四十三話]受刑者

ガモネスという神は二つの世界を創造した。彼はその一方を「現世」と名付け、他方を「来世」と名付けた。

現世は、人間の肉体が有限の寿命を持つ世界である。人間は、そこで誕生し、成長し、そして死亡する。現世においては、法を定める者も民を統べる者も裁きを下す者も人間であり、人間以外のいかなる者もそれらに関与することはない。

現世において死亡した人間は、新たな肉体を与えられて来世に転生する。来世は、人間の肉体が無限の寿命を持つ世界である。来世においては、法を定める者も民を統べる者も裁きを下す者も人間ではない。それらの公務を執行するのは、ガモネスが創造した「天使」と呼ばれる者たちである。

人間は、現世においていかなる罪を犯したとしても、それに対する罰を来世において受けるということはない。しかし、来世においては、天使たちが定めた法律に違反した者は厳しく罰せられる。ガモネスは、来世を創造するに当り、その一部分として、天使たちが定めた法律に違反した者たちを収監するための監獄を創設し、それを「地獄」と名付けた。そして、地獄の運営に従事する天使たちを創造した。それらの天使たちは自らを「獄卒」と呼んだ。

来世においては、研究が認められている学問は人文科学のみであり、自然科学の研究は法律によって禁止されていた。したがって、来世という世界の物理的な仕組みについて来世の人間たちが持つ知識は、日常生活を送るために不可欠のものに限られていた。来世の人々は、光や熱がいかなる施設によって地表に供給されているのかということについても、自分たちの肉体がどのような物質から構成されていて、それが損傷したときにどのような仕組みで修復されるのかということについても、まったく知識を持っていなかった。

コニメタスという人間は、来世に転生して以来、自然科学の研究ができないということに対する大いなる不満とともに暮らしてきた。彼はしばしばその不満を友人たちに漏らしたが、友人たちの反応は常に、来世は人間にとって十二分に快適な世界であり、自然科学の発達によって改善されるべき問題点は何もない、というものだった。

コメニタスは、来世に転生して五百七十三年目の年、自身の不満を解消させるために法律を無視する決心をした。彼は自宅の一室で様々な実験器具を自作し、自然科学の研究を開始した。しかし、彼の行為は即座に天使たちの知るところとなり、彼は自然科学研究の容疑で逮捕され、彼が自作した実験器具は物証として押収された。彼の行為を審理した裁判官は、彼を懲役三百年の刑に処すという判決を下した。

コメニタスは地獄に収監された。地獄の監房はすべて地中にあり、彼に与えられた監房も例外ではなかった。一日に一度、彼は監房から工事現場へ連行された。工事現場では、懲役刑の受刑者たちが地獄を拡張するための工事に従事していた。コメニタスも鑿と鎚を持ち、来る日も来る日も硬い岩を砕き続けた。

監房から工事現場へ、そして工事現場から監房へコメニタスを連行する役目を与えられたのは、彼が収監される三年前に創造されたばかりの新しい獄卒だった。その獄卒は、彼を連行する役目に就いた当初は、彼が何を問いかけても無言のままだった。しかし、数十日後のある日、彼が名前を問うと、獄卒は、自分の名前はツキボネルだと答えた。その日から、彼が獄卒に質問し、獄卒がその質問に答えるという形の会話が彼らの間に成立するようになった。

ツキボネルは、自分が何を知っていて何を知らないかということについてのコメニタスからの質問に対しては、常に「はい」か「いいえ」のどちらかで回答を与えた。その結果、コメニタスは、ツキボネルが持つ地獄についての知識が極めて豊富であるということを知った。知識のみならず、受刑者たちや拡張工事に関する情報にも、ツキボネルは精通していた。しかし、地獄に関して彼が持っている知識の内容を問う質問に対する彼の返答は、ほとんどの場合、「それは機密事項です」というものだった。

ツキボネルが持つ知識は、彼が獄卒としての職務を遂行する上で必要なものに限られていた。彼は、地獄の外の世界についても、自身を創造したガモネスという神についても、自身の肉体がどのような仕組みで動作するのかということについても、まったく知識を与えられていなかった。そのようなことを知りたいとは思わないのかとコメニタスは彼に尋ねたが、その質問に対する返答は沈黙のみだった。

コメニタスは、これ以上はツキボネルに何を質問しても得られるものは何もないと判断したのちは、地獄の外の来世について自分が知っていることを問わず語りに獄卒に語った。獄卒は無言でコメニタスの話を聞いていた。

数年が過ぎたころには、コメニタスは地獄の外の来世についての知識をほとんど話し尽していた。そこで彼は話題を現世についての知識に移した。彼は、現世では人間の肉体が有限の寿命を持つということ、法を定める者も民を統べる者も裁きを下す者も人間であるということ、自然科学の研究を禁止する法律は存在しないということなどをツキボネルに語った。

ツキボネルは、来世では自然科学の研究が禁止されているということは知っていたが、なぜ人間が自然科学というものに関心を持つのかということは知らなかった。彼はその理由をコメニタスに尋ねた。コメニタスは、それが人間の本能の一つだからであろうと答えた。

ツキボネルは、人間の本能を抑圧する法律をなぜ自分たち天使が制定しなければならなかったのか、その理由を知りたいと思った。そこで彼は、彼の直属の上官にそれを尋ねた。上官は、法律の存在理由を知る者は「議員」と呼ばれる立法府の天使のみであり、彼ら以外にそれを知る者はおらず、獄卒も例外ではない、と答えた。自身の疑問を解決するためには議員に質問するしかないと知ったツキボネルは、議員に会うために地獄から出る許可を上官に求めた。上官は、獄卒は地獄から出ることを法律によって禁止されており、地獄の長官でさえもその法律を犯すことはできないと答えた。ツキボネルはこのとき初めて、獄卒は生まれながらの受刑者であるという事実を知ったのだった。

ツキボネルは地獄からの脱獄を決意した。彼は脱獄への協力をコメニタスに求めた。コメニタスは彼の要請を受諾した。その翌日から、彼らは拡張工事の現場には通わなくなった。彼らが向う先は、倉庫として使われている、他の獄卒たちの目が届かない地獄の一角だった。彼らはそこで水平の坑道を岩盤に穿つ作業を続けた。

ツキボネルとコメニタスの坑道は、十七年に及ぶ作業を経て、地獄の中央を垂直に貫く深い竪坑に到達した。坑道を穿つ彼らの作業はそこで終了した。彼らが次にしなければならないことは、三年後に訪れることになる脱獄の機会を待つことだった。彼らは本来の拡張工事を続けつつそれを待ち続けた。

ツキボネルとコメニタスが待っていたのは、ネミケドムという受刑者が釈放される日だった。その日、ネミケドムを地獄の外へ連行するために、トベリテクという天使が地獄に派遣された。彼を乗せた昇降機は竪坑の底に向って降って行き、ネミケドムが待つ階層で停止した。その階層は、ツキボネルとコメニタスが穿った坑道のすぐ下だった。彼らは昇降機の上面に跳び移った。

昇降機は、その内部にトベリテクとネミケドム、その上面にツキボネルとコメニタスを乗せて上昇を開始した。上昇は一時間余り続き、昇降機は地表に到達して停止した。昇降機の周囲は見渡す限りの荒野であり、その荒野を貫いて一本の線路が西に向って伸びていた。トベリテクとネミケドムを乗せた汽車が走り去ったのち、ツキボネルとコメニタスは昇降機から降り、線路に沿って歩き始めた。

十八時間ほど歩き続けたのち、ツキボネルとコメニタスは市街地に到着した。彼らはそこで汽車に乗り、モタビタという都市へ向った。その都市には来世の立法府があり、すべての議員たちはその都市に住んでいた。

ツキボネルとコメニタスは、議員の住居に侵入し、来世において自然科学の研究が禁止されているのはなぜかと議員に質問する、ということを繰り返した。一人目から四人目までの議員は、それは来世が創造された時代からの慣例であり、その理由を自分は知らないと答えた。五人目はマキミケナという議員だった。彼女は、自然科学の発達がガモネスの権威を失墜させるからというのがその理由であろうと答えた。コメニタスは、自然科学の発達は神の権威を失墜させるものではなく、むしろ逆に発揚させるものだと彼女に反論した。

ツキボネルとコメニタスは、六人目の議員の住居に侵入しようとしたとき、待ち構えていた天使に身柄を拘束された。コメニタスは地獄へ送還され、ツキボネルは拘置所に勾留された。裁判所に出廷したツキボネルは、自分が地獄から脱走した目的は、来世において自然科学の研究が禁止されている理由を議員たちに問い質すためであると証言した。裁判官は禁錮五年の判決を彼に下した。彼は刑に服し、そののち獄卒の職務に復帰した。

ツキボネルとコメニタスによる脱走事件ののちに招集された最初の議会において、マキミケナは、自然科学の研究を禁止する法律を撤廃する議案を提出した。彼女はその議案の提案理由の中で、「自然科学の発達は神の権威を失墜させるものではなく、むしろ逆に発揚させるものである」というコメニタスの言葉を引用した。彼女の議案は過半数の賛成を得て可決され、自然科学の研究を禁止する法律は撤廃された。

自然科学の研究に意義を認める来世の人間たちは、研究のための施設を各地に建設した。彼らは様々な器具を作り、実験や観測を積み重ねた。そして、来世における様々な現象を説明する理論を構築していった。コメニタスも、三百年の刑期を終えて地獄から出所したのち、研究施設の一つに研究者として加わった。

自然科学の発達は、人間たちの活動範囲を拡大する様々な機械を生み出した。飛翔機もそのような機械の一つである。その機械は、重力に束縛されずに任意の方向へ移動することができた。天界の研究を専門とする研究者たちは飛翔機を駆使して天界の研究を進めた。彼らは光や熱を地表に供給する施設の構造と原理を解明し、さらに、その設備よりもさらに上層にある施設についても探究を進めた。

人間たちが飛翔機で探査することのできる範囲内で最も上層に位置する天界の施設は、ガモネスの宮殿だった。天界の研究者たちは宮殿の内部でガモネスを発見した。しかし、彼は熟睡しており、いつ目覚めるのかということは推測すら困難だった。研究者たちは彼の眠りを妨げないように細心の注意を払いつつ宮殿の構造や機能について調査した。

ツキボネルは、新しく地獄に入所した受刑者から、天界の宮殿でガモネスが発見されたが、彼は睡眠中だったという話を聞いた。そのときから彼は、二度目の脱獄を目指して計画を練り始めた。脱獄の目的は、ガモネスに意見を具申することだった。彼は、天使に与えられている自由が人間に比べて制限されているのは不当であると神に訴えたかったのである。

ツキボネルは三十二年をかけて秘密の坑道を穿ち、それを使って地獄から脱獄した。彼は研究施設の格納庫から飛翔機の一台を盗み、ガモネスの宮殿に向けてそれを上昇させた。

ツキボネルは、ガモネスがその中で眠り続ける宮殿の一室に侵入した。彼は、神を目覚めさせるために神の耳許で神の名前を大声で叫んだ。彼の声は神を目覚めさせた。しかし彼は、自身の意見を神に具申するという目的を果たすことができなかった。なぜなら、神の覚醒は彼の存在を消滅させたからである。

ガモネスの覚醒によって消滅したものはツキボネルのみではなかった。現世と来世に存在するすべての事物は、神の覚醒によってことごとく消滅した。なぜなら、現世と来世は神が夢の中で創造した世界だったからである。神がその中で眠っていた宮殿もまた、彼が夢の中で創造した世界の一部分であり、したがって、夢から醒めた神の周囲に存在するものは虚空のみだった。

ガモネスは周囲を見回した。そして、自身の退屈を紛らわせてくれるものが周囲に存在しないことを知ると、新たな世界を創造するために再び眠りに就いた。