[第四十九話]風刺画

マキモラは、サデクナペタ大陸の中央に位置する王国である。

マキモラの歴代の国王が都を置いたカボナという都市は、有史以前より、東西の交易の要衝として繁栄を謳歌してきた。マキモラ人の商人たちは、大陸の周縁部にある国々で特産品を買い集め、大陸の反対側の国々へそれらを届けることによって巨万の富を築いた。

クネゴスという預言者によってサコツル教という一神教が創始される以前の時代、マキモラ人の大多数は多神教を信じていた。カボナの一角にはモルビクネと呼ばれる神殿があり、その内部にはマキモラ人たちが崇拝する様々な神々の偶像が安置されていた。モルビクネ神殿を管理する役目を王家から委託されたキニカセル族という部族は、カボナにおける隠然たる影響力を保有していた。

伝承によれば、トクネゴスは宝冠暦二七〇年頃にカボナで生まれたと言われている。彼の両親は彼がまだ幼児だった頃に亡くなり、彼は裕福な商人である彼の叔父に引き取られた。彼が成年を迎えた年、彼の叔父は自身の事業の一部を彼に譲渡した。

クネゴスは商人としての非凡な才覚を遺憾なく発揮し、カボナにおける地歩を着々と築いていった。しかし、あまりにも目覚ましい彼の勃興は、彼の事業と競合する事業を営む者たちからの反感を彼が買う一因となった。

キニカセル族の当時の族長はハリザムルという人物だった。トクネゴスに反感を抱く商人たちは、身の程をわきまえることを彼に教えてやってほしいとハリザムルに訴えた。族長は商人たちのために一計を案じた。彼は、ある地方においてある商品に対する突発的な需要が発生するということを推測させる架空の情報を市場に流すとともに、トクネゴスを除いた商人たちにはそれが虚報であることを伝えた。この商機に乗り遅れてはならないという焦りを感じたトクネゴスは、その商品を確保するために高利貸から多額の融資を受けた。

クネゴスは、大量に仕入れた商品とともに、その商品に対する需要が見込まれる地方に乗り込んだ。しかし、一か月が過ぎ、二か月が過ぎても、彼が仕入れた商品は見向きもされなかった。四か月後、意気消沈してカボナに戻った彼を待ち受けていたのは、人々の嘲笑だった。そのときにはすでに、カボナの人々のうちで、虚報に惑わされて多額の損失を被った商人の話を知らない者は誰もいなかったのである。

クネゴスは、自分を陥れるために虚報を流した黒幕がハリザムルであることを知り、彼に対する激しい憎悪を抱いた。彼が最初に神の声を聞いたのは、ハリザムルに対する復讐の計画を彼が練り始めた矢先のことだった。神は、「ハリザムルは地獄に堕ち、永遠の苦しみを味わうであろう。その男への復讐はお前の仕事ではない」と彼に語った。

神の声は、トクネゴスが復讐の計画を放棄したのちも終息しなかった。神は次のように彼に告げた。

「私はお前を預言者として選んだ。次の啓示を人々に伝えよ。私は天地を創造した神である。私以外に神は存在しない。すべての人間は私に服従しなければならない。いかなる人間も偶像を崇拝してはならない」

クネゴスは、自身が聞いた啓示をカボナの人々に語り聞かせた。多くの人々が彼の言葉を信じ、彼が「ミゴバス」と呼ぶ神に対する服従を誓った。「ゴバス」はマキモラ語で神を意味する普通名詞であり、「ミ」はマキモラ語の定冠詞である。

クネゴスがミゴバスの預言者であることを信じる人々は、自分たちの宗教を「サコツル教」と呼んだ。「サコツル」は、服従を意味するマキモラ語の普通名詞である。彼らは、多神教を信じる人々、特にモルビクネ神殿の守護者であるキニカセル族の人々とその族長であるハリザムルを激しく非難した。キニカセル族の人々は、サコツル教が勢力を拡大することを阻止するために、その信徒たちに対して迫害を加えた。

クネゴスは、キニカセル族による迫害から信徒たちを守るために、彼らとともに、カボナから東へ二十里を隔てたクネマという都市へ移住した。そしてその地でもミゴバスの言葉を人々に伝えた。彼が伝えた啓示は人々の心を動かし、多くの人々がミゴバスへの服従を誓った。ミゴバスの言葉は、クネマのみならず、そこを拠点としてマキモラの各地にも伝えられた。

ハリザムルは、トクネゴスは王位の簒奪を企てているとマキモラの国王に讒言した。国王は、トクネゴスを捕縛せよと軍隊に命じた。国王の軍隊はクネマを包囲した。クネマに住むサコツル教徒たちは槍や刀で武装し、クネマへ入城しようとする軍隊を威嚇した。

マキモラの各地に住むサコツル教徒たちは、預言者に危機が迫りつつあるという報せを聞き、武器を手にしてクネマに進撃した。その数は、クネマを包囲する国王の軍隊を遥かに凌駕していた。自軍に勝ち目はないと判断した国王軍の司令官は、サコツル教徒の軍勢に投降するとともにサコツル教に改宗した。

サコツル教徒たちは、武装を解くことなくカボナへ向けて転進した。彼らがカボナに到着したときには、すでにマキモラの国王は王城から姿を消していた。ハリザムルの行方も杳として知れなかった。サコツル教徒たちによるカボナの制圧が完了したのち、トクネゴスはカボナに無血入城した。彼はモルビクネ神殿の扉を破り、その内部に安置されていた偶像をことごとく破壊した。

宝冠暦三三九年にトクネゴスが死去したのちも、サコツル教はその信徒の数を増加させ続けた。宝冠暦十七世紀の末期には、その信徒の数は世界の人口の五分の一に達した。マキモラは国民のほぼ全員がサコツル教徒であり、その周辺の国々においてもサコツル教徒は圧倒的な多数を占めていた。それに対して、サデクナペタ大陸の東岸や西岸の国々においては、サコツル教よりも古い時代から人々に親しまれていた宗教を信仰する人々が依然として多数を占めていた。しかし、東岸や西岸の国々においても、サコツル教徒の数は増加の傾向にあった。

カリダナという国に住むバリハムラという精神医学者が、「精神医学的見地におけるトクネゴス」という論文をカリダナ精神医学会の機関誌に投稿したのは、宝冠暦一六九三年のことだった。この論文は、トクネゴスの言行が記載された各種の文献を分析することによって、彼が罹患したと思われる精神病がいかなるものであったかということを解明する、という研究の成果を報告するものだった。

この論文を読んだ者たちの多くは、この論文はサコツル教徒たちの怒りを招くことになるのではないかという懸念を抱いた。しかし、その懸念は杞憂に終わった。カリダナ語を理解することのできるサコツル教徒のうちの少なからぬ者たちがこの論文を読んだであろうということは明らかだったが、彼らからの非難の声は聞こえてこなかったのである。この論文が純粋に学術的なものであり、トクネゴスを侮辱することは目的とされていない、ということがその理由であろうと人々は考えた。

サデクナペタ大陸の西岸の国々に住む風刺画家たちの多くは、バリハムラによる研究に関心を抱いた。サコツル教の信徒たちから預言者として敬愛されている人物が精神病の患者だったという彼女の研究成果は、権威として祭り上げられている者たちの急所を突くことによってそれを笑いに昇華させることを生業とする風刺画家たちに恰好の題材を提供した。政治家や実業家や教育者たちを題材とする風刺画と並んで、トクネゴスを題材とする風刺画が新聞や雑誌に頻繁に掲載されるようになった。

サコツル教徒たちは、自分たちが敬愛する預言者が風刺画の中で笑い者にされていることに対して強い精神的苦痛を感じた。彼らのうちの一部の者たちは、預言者の風刺画を掲載した新聞社や雑誌社に対して、それによって受けた精神的苦痛に対する慰藉料を請求する訴訟を起こした。しかし、それらの訴訟はいずれも原告の敗訴で終わった。いずれの訴訟においても、預言者の風刺画を掲載することは表現の自由という権利の正当な行使であると裁判所は判断したのである。

クネゴスを侮辱する風刺画家たちや、彼らが描いた風刺画を掲載する新聞や雑誌の編集者たちは、宝冠暦一七〇九年ごろから、サコツル教徒の過激派組織による脅迫を受けるようになった。過激派組織が最も執拗に脅迫を繰り返したのは、「ゴモタバ」という週刊誌の編集長とそれに寄稿する風刺画家たちだった。

「ゴモタバ」は、サデクナペタ大陸の西岸にあるスラニマという国で刊行されている、風刺を専門とする大衆向けの週刊誌である。この週刊誌には、権威を笠に着る者たちを痛烈な批判精神で笑い物にする風刺画が満載され、その発行部数は同類の週刊誌の追随を許さなかった。しかし、それらの風刺画のうちには、下品なものや悪趣味なものも少なくなく、良識を持つ人々はこの週刊誌を蛇蝎のごとく嫌っていた。

「ゴモタバ」の社屋は、スラニマの首都であるルキタの一角にあった。宝冠暦一七一二年六月十六日の朝、武装した二人の男が、定例の編集会議が開かれていた社屋の会議室に突入し、編集長と六人の風刺画家を射殺して逃走した。その六時間後、ドニソムサという国に拠点を置くサコツル教徒の過激派組織が、「我々は預言者を侮辱する者どもに対する処刑を執行した」という犯行声明を発表した。事件の二日後、警察は、ルキタの郊外にある倉庫に潜伏していた実行犯の二人を四時間に及ぶ銃撃戦の末に射殺した。

事件の三日後、ルキタの中心部にある広場において、「ゴモタバ」に対する襲撃事件で犠牲になった編集長と風刺画家たちを追悼する集会が開かれ、広場は八万人の群衆で埋まった。来賓として招かれたスラニマの大統領が、「ゴモタバ」に対する襲撃事件は表現の自由という権利を行使する人々に対する暴力による脅迫であるが、スラニマの国民はこのような脅迫には決して屈しないということを全世界に示そうではないかと語ると、広場は万雷の拍手と歓声に包まれた。

「ゴモタバ」に対する襲撃事件は、風刺画家たちを萎縮させるどころか、逆に彼らの創作意欲に油を注いだ。それ以前は宗教を題材とする風刺画をまったく描いていなかった風刺画家たちまで、自身の風刺画にトクネゴスを登場させるようになった。また、「ゴモタバ」のような大衆向けの雑誌のみならず、高級志向の雑誌や新聞までもが預言者の風刺画を掲載するようになった。サコツル教徒の過激派組織は、預言者に対する侮辱が受忍の限度を超す風刺画を描いた者や、その風刺画を掲載した雑誌や新聞の編集者に対して、容赦のない処罰を科した。

良識を持つサコツル教徒の多くは、風刺画家や編集者の殺害は問題を解決しないどころか、解決をより困難にするものだということを理解していた。彼らのうちの一部の者たちは、風刺画家たちによるトクネゴスに対する侮辱に終止符を打つための非暴力的な方法を模索した。キタボレムも、そのようなサコツル教徒の一人だった。

キタボレムは、カボナ大学というマキモラの国立大学を首席で卒業した秀才である。過激派の戦闘員が「ゴモタバ」を襲撃したとき、彼は、マキモラとセネギタとの交易史について研究するためにセネギタの大学に留学中だった。セネギタは、スラニマの北西に浮かぶ島を領土とする国である。「ゴモタバ」に対する襲撃事件に接して痛切な憂慮を抱いたキタボレムは、その事件に続く侮辱と暴力の連鎖を断ち切るために自分も何かをしなければならないという思いを募らせた。彼は、侮辱と暴力の連鎖を断ち切るための方法について模索するためには、トクネゴス自身はこの問題についてどのように思っているのかということを知る必要があると考えた。

セネギタには、降霊術というものに対する一定の需要が存在していた。その結果として、降霊術師は、それによって生計を立てることが可能な職業の一つとなっていた。愛する人を喪った悲しみを癒すために、人々は降霊術師の門を叩いた。降霊術師たちは、故人の霊を自身の身体に憑依させることによって、故人と遺族との再会を手助けした。

キタボレムは何人かの降霊術師を訪ね、トクネゴスの霊と対話させてもらいたいと依頼した。しかし、どの降霊術師も、自分にはトクネゴスの霊を呼び寄せることはできないと彼に告げた。彼らが預言者の霊を呼び寄せることができない理由は、彼らがマキモラ語を話すことができなかったからである。霊を呼び寄せるためには、その霊が理解することのできる言語を話す能力が降霊術師に備わっている必要があるが、トクネゴスが理解することのできる言語はマキモラ語のみであり、それを話すことのできる降霊術師は存在しなかったのである。そこでキタボレムは、自らが降霊術師となり、トクネゴスの霊を自身に憑依させようと考えた。彼は大学に休学届を提出し、カリタミナという降霊術師に弟子入りした。

カリタミナは、降霊会の助手としてキタボレムを使役するとともに、その仕事の合間に自身が持つ降霊術の奥義を彼に伝授した。死者の霊を呼び寄せるために最も重要なことは、その死者がいかなる人間だったかということを把握することである、と彼女は彼に幾度となく語った。彼女のこの持論は彼女自身によって実践されていた。彼女は、遺族から降霊の依頼を受けると、降霊会を開くまでの準備期間に、生前に故人と親しかった人々を訪ね歩き、故人の人柄について尋ねたり、故人から送られてきた手紙を借り受けたりするなど、故人について知るための努力を惜しまなかった。

キタボレムは、カリタミナが持つ降霊術の奥義をすべて会得したのち、トクネゴスの霊を自身に憑依させるための準備を開始した。彼はマキモラに帰国し、自身の母校の図書館に籠り、預言者について知るために必要な文献を次々と読破していった。彼が読破した文献は、預言者を主題とするもののみに留まらなかった。預言者が生きた時代におけるマキモラの社会制度について述べたもの、その時代に話されていたマキモラ語の文法や語彙や音韻について述べたもの、預言者によって駆逐されることとなった、その時代のマキモラ人たちが信仰していた多神教について述べたものなど、その分野は多岐にわたった。

キタボレムは、宝冠暦一七二四年十月二十一日、カボナ大学の校舎の一室で、トクネゴスの霊を自身に憑依させる降霊会を開いた。その降霊会には、預言者を研究領域とする数名の大学教授が招待された。キタボレムが教授たちを降霊会に招いた目的は、自身に憑依した霊が間違いなく預言者であるか否かを彼らに判定してもらうためだった。教授たちはキタボレムが呼び寄せた霊に様々な質問を投げかけた。キタボレムに憑依した霊は悠然たる態度で彼らの質問に答え、時には彼らの学説の誤りを指摘した。降霊会の終了後、彼らのうちで、キタボレムが呼び寄せた霊が預言者であることに否定的な意見を述べた者は皆無だった。

キタボレムがトクネゴスの霊を呼び寄せたという噂は、マキモラのみならず全世界を駆け巡った。報道関係者たちは、預言者を呼び寄せる降霊会に自分たちを招待してほしいとキタボレムに要請した。彼はその要請を快諾し、次回の降霊会の招待状をマキモラの主要な報道機関に送付した。

報道関係者を招待した降霊会は、宝冠暦一七二五年二月八日にカボナの中心部にある劇場で開催された。「ボルダナ」という新聞のキナスタスという記者が、報道関係者を代表してトクネゴスに質問するために、キタボレムとともに舞台上の椅子に着席した。

「風刺画家たちがあなたを侮辱する風刺画を描くことについて、あなたはどう思いますか」とキナスタスはトクネゴスに尋ねた。この質問に対して預言者は次のように答えた。

「風刺画家どもによる私に対する侮辱は極めて許しがたい。ゆえに、彼らに報復する者たちの気持ちはよく理解できる。しかし、暴力による報復は彼らを増長させるだけだ。我々はもっと賢く行動しなければならない」

「風刺画家たちによる侮辱を終わらせるために、我々は何をすればよいのでしょうか」とキナスタスは尋ねた。

「風刺画家どもによる侮辱を終わらせる方法を見出すことは困難だが、彼らからの攻撃によって我々が受ける被害を軽減させる方法はある。それは、彼らの標的を分散させることだ。現状では、極めて多数の人間がサコツル教を信じ、私が預言者であると認識している。この状態では、彼らの標的が私に集中することは避けられない。その結果として、一点の風刺画が極めて多くの人間に精神的苦痛を与えることになってしまう。多数の預言者が出現し、それぞれの預言者が各自の宗教を創始し、サコツル教徒たちがそれらの宗教に改宗すれば、風刺画家どもの標的は多数の預言者に分散するであろう。そうなれば、一点の風刺画によって被害を受ける者の人数は減少するであろう」

「しかし、神の声を聞くことができるのは、あなたのような特別な人間だけなのではないでしょうか」とキナスタスは反論した。

「私は特別な人間ではない。私は、市場を歩き、ものを食う普通の人間だ。私にも神の声は聞こえない。私が伝えた啓示は私の創作だ。私は、私を陥れたハリザムルに対する復讐を望んだ。そこで私は、彼を失脚させるために、彼の地位の源泉である偶像崇拝を排撃する宗教を創始し、それを流行させたのだ。ゆえに、誰であろうと、啓示を創作しさえすれば預言者になることができる。未来の預言者たちよ、多様な新しい宗教を創始し、サコツル教徒たちをそれらの宗教に改宗させよ」

降霊会が終わるや否や、それに出席した報道関係者たちはその内容を伝える記事を執筆した。それらの記事は様々な言語に翻訳され、数日後には、トクネゴスの発言は全世界の人々の知るところとなった。

新しい宗教を創始せよというトクネゴスの呼びかけに即座に反応したのは、大学教授の職を望みつつもいまだにそれを得ていない高学歴の若者たちだった。彼らは、自身が持つ豊かな学識を活用して啓示を創作し、それを人々に語り聞かせた。サコツル教徒たちの一部は彼らが語る啓示に魅了され、サコツル教を棄てて新たな宗教の信徒となった。

クネゴスの呼びかけに応えて新たな宗教を創始した預言者の人数は、宝冠暦一七三五年に千人を超えた。彼らの多くは自身が創始した宗教の布教を目的とする団体を設立し、それらの団体の代表者となった。それらの団体は、その代表者を預言者と認める信徒たちからの喜捨を集積し、それを礼拝所の建設や布教活動などの資金にした。

サコツル教徒の人口は、宝冠暦一七二五年から一七四〇年までの十五年間で、それ以前の人口の十分の一未満にまで減少した。すなわち、新しい宗教を創始せよと未来の預言者たちにトクネゴスが呼びかけてから十五年で、サコツル教徒の九割以上が、他の宗教に改宗したり無宗教者になったりしたのである。かつてはサコツル教の礼拝所だった施設も、その多くが他の宗教の礼拝所に改装された。

宝冠暦一七四〇年代に入っても、風刺画家たちはしばしばトクネゴスを侮辱する風刺画を描いた。しかし、それらの風刺画に対する抗議の声は、かつてほど声高なものではなくなっていた。また、トクネゴスの呼びかけに応えて出現した預言者を侮辱する風刺画を描く者もいた。しかし、そのような預言者たちは概して個性が乏しいため、それらの風刺画が具体的に誰を侮辱しているのかということを特定することは困難だった。したがって、それによる精神的苦痛を訴える信徒はほとんどいなかった。