[第五十二話]焦土

モルカという惑星の表面は、その面積の四分の三が海洋である。そして陸地は五つの大陸と無数の島々から構成されている。

モルカには生物が棲息しており、その海洋にも陸地にも複雑な生態系が構築されている。生物の中には、進化の過程で高い知能を獲得した者たちもいる。彼らは生物の種のそれぞれに名前を与え、自身の種にも人間という名前を与えた。

人間たちは法規や科学や芸術などの様々な文化を創造した。宗教もまた彼らが創造した文化の一部分である。メテクスという人物が創始したメテクス教という宗教は、ナバコマ大陸の西部の国々に受容された。人間たちの間で広範囲に使われている暦法は天主暦と呼ばれるものであるが、この暦法の紀元はメテクスが生まれたとされる年である。天主暦十六世紀には、ナバコマ大陸の西部の国々から移住した人々によって、メテクス教は他の大陸へも拡散した。

天主暦七世紀には、ナバコマ大陸のほぼ中央にあるジルミタという国に生まれたサキモストスという人物が、神に対する絶対的な服従を信徒に要請する、ナキラミ教と呼ばれる宗教を創始した。「ナキラミ」は、ジルミタで使われている言語において服従を意味する普通名詞である。この宗教はナバコマ大陸の中央部の国々やタデリサ大陸の北部の国々に受容された。

メテクス教やナキラミ教は、天主と呼ばれる一柱の神のほかに神は存在しないと主張する一神教であるが、ナバコマ大陸の東部の国々や他の大陸の国々では、多数の神々が存在すると主張する多神教が信仰されていた。

タトラという国の領土は、ナバコマ大陸の東の海上にある無数の島々から構成されている。有史以前のタトラには多数の国々が分立していた。しかし、天主暦三世紀ごろに発生した戦乱を収拾するため、各国の有力者たちはセタルモスという人物を推戴し、タトラは彼のもとで一国に統合された。

セタルモスは自らを祭祀王と称した。なぜなら、彼は政治上の王であるのみならず、神々に対する祭祀を司る神職たちの統括者でもあったからである。彼の死後、タトラの有力者たちは彼の息子の一人を第二代の祭祀王に推戴した。さらに彼らは、これ以降も祭祀王の地位は彼の男系の子孫によって継承されるという点で合意に達した。

第三十代の祭祀王に即位したモトバムは歴史書の編纂を廷臣たちに命じた。その歴史書はモトバムから四代ののちに祭祀王に即位したクナサラの代に完成し、『タトラ書』という書名が与えられた。その書物の冒頭の部分は神話であり、天地開闢の時に出現した神からセタルモスに至る系譜を記載していた。祭祀王の先祖であるナルスデクスという神は、神々が住む天界から地上に降臨するに際して、天界を統治するクベナタルムサという女神から地上の統治を委託されたと『タトラ書』は述べている。

また『タトラ書』は、クジナトスという人物が初代の祭祀王であり、セタルモスは第十代、モトバムは第四十代であると述べている。しかし、この記述を裏付ける書物や金石文などの史料は存在しない。その実在性を史料によって裏付けることができる祭祀王は、セタルモス以降である。

祭祀王による祭政一致の親政は天主暦八世紀ごろまで続いた。それ以降、政治の実権は祭祀王の外戚となった家系の人々が握ることとなり、さらに十二世紀には政治の実権は退位した祭祀王に移った。その後、武芸によって一門の興隆を図ろうとする武家と呼ばれる人々が台頭し、十三世紀には政治の実権は彼らへ移行した。しかし、祭祀における権威は歴代の祭祀王によってその後も連綿と継承され続けた。

天主暦十九世紀に資本主義体制を確立したナバコマ大陸の西部の国々は、その大陸の東部の国々や他の大陸の国々を侵略し、植民地として経済的に支配した。ヌデリカ大陸の南部にあるクジムタという国も、ナバコマ大陸の西部の国々と同時期に資本主義体制を確立していた。クジムタは、強大な軍事力を背景としてタトラを経済的な支配下に置くことを意図し、四隻の軍艦をタトラに派遣した。武家による当時のタトラの政府は軍事力による解決を望まず、クジムタの要求を呑んで不平等条約を締結した。

タトラの一部の人々は、タトラは軍事力を行使することによって経済的な独立を維持すべきであると主張し、武家による政府を打倒するために暗躍した。天主暦一八六九年、彼らは、即位したばかりの若年の祭祀王を籠絡し、王政復古を彼に宣言させ、祭政一致の政府を樹立した。その後、旧政府と新政府との間で内戦が勃発したが、新政府はこれに勝利し、タトラの全土を掌握した。

新政府はタトラの首都の一角に荘厳な神殿を創建し、武家による政府を打倒する運動の渦中で非命に倒れた者たちや、内戦で戦死した新政府軍の兵士たちをそこに神として祀った。創建の十年後、殉国神殿という名称がこの神殿に与えられた。

新政府にとっての最大の課題は、ナバコマ大陸の西部の国々やクジムタとの工業力の格差を解消することだった。さらに、軍事力の増強もまた新政府の重要な課題の一つだった。この目的のために新政府は徴兵制を施行した。

一般的には、兵士を志願した者に比べると徴用された兵士は勇猛さに欠けるものであるが、タトラの軍隊においては、徴用された兵士の勇猛さは志願した兵士に見劣りするものではなかった。なぜなら、祭祀王のために戦うことには自身の命を捧げるに値する価値があるという認識を徴用された兵士たちにも付与する施設、すなわち殉国神殿が存在していたからである。タトラのすべての国民は、初等教育において、すべての国民は祭祀王の臣下であり、彼のために戦って死んだ者は殉国神殿に神として祀られ、彼からの感謝の祈りを捧げられるであろう、と教え込まれていた。その結果、志願した兵士のみならず徴用された兵士も、祭祀王のために戦って死ぬことはいかなる名誉にもまさる名誉であると認識していたのである。

工業力の格差を解消し、軍事力も十分に増強したタトラは、ナバコマ大陸の東部の国々に対する侵略を開始した。タトラの兵士たちはその勇猛さを遺憾無く発揮し、タトラは占領地を拡大していった。自身の死を厭わないタトラの兵士たちは、敵国の民間人の生命をも軽視した。天主暦一九三九年にテムクバという国のネクミカという都市を占領したタトラ軍は、その都市の民間人の多くを虐殺した。

このころからタトラの政府は、『タトラ書』に記載された神話を初等教育において歴史的事実として教えることを義務化した。さらに政府は、「祭祀王は肉体を持つ神であり、モルカという惑星の全土を統治せよという命令を天界の統治者から与えられている、という教義を子供たちに教えよ」と全国の学校に指示した。タトラの子供たちは、モルカに存在するすべての国を占領するための戦争に自身の生命を捧げることが自身の使命であるという認識を精神に植え付けられた。

タトラとテムクバとの戦争は長期化した。タトラは次第に資源が欠乏し、戦争を継続することが困難な状況に陥った。タトラは資源の多くをクジムタからの輸入に頼っていたが、クジムタはタトラがテムクバから撤退することを望んでいた。そこでクジムタは、テムクバから撤退しなければタトラへの資源の輸出を禁止するとタトラに通告した。タトラとクジムタは利害を調整しようと努めたが、交渉は決裂した。天主暦一九四三年十二月九日、タトラはクジムタに宣戦を布告した。

タトラとクジムタとの戦争は、緒戦においてはタトラが優勢だったが、形勢は半年後に逆転し、クジムタはタトラによって占領されていた地域を次々と奪回していった。しかし、タトラの指導者たちは敗北を認めることを潔しとしなかった。彼らは、爆弾を搭載した戦闘機や潜水艦を敵艦に体当りさせるという、自国の兵士を消耗品として扱う戦法で起死回生を図った。しかし、そのような戦法による戦果は微々たるものであり、形勢を盛り返すには至らなかった。

天主暦一九四七年七月、クジムタはタトラに対して無条件降伏を勧告した。しかしタトラの指導者たちは、祭祀王による統治という体制の維持を降伏の条件とすることに固執した。クジムタは、折しも開発に成功していた原子爆弾をタトラに対して使用する決断を下した。八月七日、ネクモサというタトラの地方都市に原子爆弾が投下された。ネクモサは一瞬にして焦土と化し、そこで暮らしていた住民に苦痛と死をもたらした。当時の祭祀王だったメクゼスは、その惨状を聞いて無条件降伏を決断し、八月十六日、タトラの国民に対してその旨を発表した。

タトラを占領したクジムタの軍隊は、戦争を推進したタトラの指導者たちを審理する裁判を開廷し、彼らを戦争犯罪人として処刑した。さらにクジムタの占領軍は、タトラの新しい憲法の草案を起草した。その草案に基づいてタトラの政府によって起草された草案は、国会において可決され、天主暦一九四九年五月四日に施行された。

天主暦一八九一年に施行された旧憲法は、タトラの主権者は祭祀王であると規定していた。それに対して新憲法は、タトラの主権者はその国民であり、祭祀王はタトラの象徴であると規定していた。また、新憲法の第十二条は、戦争を放棄すること、および戦力を保持しないことを規定していた。

クジムタの占領軍は、占領を開始した当初、殉国神殿はタトラの国民を戦争に駆り立てるために利用された施設であると考え、それを焼却する計画を立てていた。しかし、かつては国有の施設だった殉国神殿は、敗戦後は民間の宗教施設となっていた。宗教政策を立案する占領軍の部署は、この計画についての諮問に対して、この計画は自分たちが進めようとしているタトラにおける政教分離の確立という政策に反するものであると答申した。この答申を受けて、殉国神殿を焼却する計画は破棄された。

天主暦一九五三年、クジムタとタトラは講和条約に調印し、その翌年、講和条約の発効によってタトラは主権を回復した。

天主暦一九五六年、タトラの政府は防衛隊という名前の軍隊を創設した。この軍隊については、戦力を保持しないことを規定する憲法第十二条に違反していると考える国民も少なくなかったが、タトラの国会において多数の議席を持つ保守党という政党は、憲法第十二条は自衛権の発動としての戦力の行使まで禁止しているわけではないという解釈に基づき、防衛隊は違憲ではないという党是を堅持し続けた。

天主暦一九八〇年、殉国神殿は、戦争犯罪人として処刑されたタトラの指導者たちを祭祀の対象として追加した。このことを知った祭祀王のメクゼスは、タトラを悲惨な戦争に駆り立てた指導者たちが神として祀られたことに不快感を示し、それ以降、二度と殉国神殿に足を踏み入れなかった。

保守党は、個別的自衛権の行使は合憲であるが、集団的自衛権の行使は違憲であるという憲法解釈を採用していた。しかし、天主暦二〇一四年、保守党を主体とする内閣は、集団的自衛権の行使も合憲であるとする憲法解釈を採用することを閣議決定した。そして翌年、集団的自衛権の行使を可能にする法案を矢継ぎ早に国会に提出し、そのすべてを成立させた。

その後の国政選挙においても多数の議席を獲得し続けた保守党は、憲法に対する認識を共有する野党の協力を得て、天主暦二〇二一年、祭祀王をタトラの元首であると規定することなどを骨子とする憲法の改正を発議した。国民投票が実施され、その結果、改正案は投票者の過半数の賛成を得て成立した。憲法の改正案に対する国民投票はその三年後と六年後にも実施され、いずれの投票においても改正案は過半数の賛成を得た。

天主暦二〇二四年の憲法改正では、「戦力を保持しない」という部分が第十二条から削除され、自衛権を行使するために国防軍という名前の軍隊を保持するという条項が追加された。そして二〇二七年の憲法改正では、政教分離を定めた条項に対して、社会的な儀礼の範囲内にある宗教に関しては政教分離の原則は適用されないという但し書きが追加された。

政教分離を定めた憲法の条項に但し書きが追加されたことは、殉国神殿の国有化を可能にした。天主暦二〇二八年に保守党は殉国神殿を国有化する法案を成立させた。タガマキラという国で二〇二九年に発生した紛争では、多国籍軍の一員として活動したタトラの国防軍にも四名の戦死者が出た。彼らを祭祀の対象として追加する殉国神殿における儀式は、総理大臣の臨席を仰いで盛大に執行された。しかし、当時の祭祀王だったソベタムは、国民の多くが臨席を望んだにもかかわらず、それを固辞した。

保守党は、その後も国会において多数の議席を獲得し続けた。憲法改正の次に彼らが取り組んだのは初等教育の改革だった。小学校における神話の教育は、クジムタの占領軍によって禁止されて以来、主権を回復したのちも学習指導要領から除外されたままだった。天主暦二〇三一年、教育行政を司る教育省は、保守党の諮問機関による答申に沿って、小学校の社会科の学習指導要領に神話の教育を盛り込んだ。さらに、教科書に対する検定基準を見直し、祭祀王は地上の統治を委託された神の子孫であるという記述のない社会科の教科書の執筆者に対しては、それを加筆するようにという指示を与えた。

次に保守党が取り組んだのは核武装だった。天主暦二〇三三年度の国家予算には、核兵器の研究開発費という名目で多額の予算が計上された。核兵器開発機構という名称の半官半民の組織が設立され、多数の物理学者がこの組織に研究員として招聘された。核兵器開発機構は、二〇三六年には原子爆弾の実験を成功させ、二〇三八年には水素爆弾の実験を成功させた。そして二〇四一年には実戦で使用可能な核兵器の製造を開始し、それらは国防軍の主要な基地に配備された。

カナグスタ諸島は、タトラの南方に位置する無人島嶼群である。この島嶼群はタトラが実効支配していたが、テムクバもその領有権を主張していた。テムクバは天主暦二〇一四年ごろから、政府の機関が所有する船舶にこの島嶼群の近海を航行させるという手段によって、タトラによる実効支配に対して抗議する姿勢を示していた。

天主暦二〇四二年、タトラの内閣は、カナグスタ諸島に国防軍の基地を設置し、兵士を常駐させることを閣議決定した。基地は翌年に完成し、カナグスタ諸島は要塞と化した。テムクバは外交官を介してタトラに対する遺憾の意を表明したが、タトラの政府はそれを黙殺した。テムクバは態度を硬化させ、カナグスタ諸島の近海に海軍の艦船を派遣した。

この当時のタトラの大学生は、小学校において神話の教育を受けた者たちがその大多数を占めていた。彼らのうちで超国家主義的な思想を持つ者たちは、有志を募り、愛国青年同盟という政治結社を設立した。彼らは学生たちに、国家の危機に立ち向かうために行動せよと訴えた。彼らに煽動された学生たちは、国会議事堂を包囲し、テムクバを植民地にして祭祀王に献上せよと叫んだ。

天主暦二〇四三年十二月九日、タトラはテムクバに対して宣戦を布告した。タトラの国防軍はサラクタマというテムクバの都市にある軍港を奇襲攻撃し、そこを拠点とする艦隊に対して壊滅的な打撃を与えた。サラクタマの近海における制海権と制空権を得たタトラの国防軍は、歩兵師団の大軍をサラクタマに上陸させた。

天主暦二〇四四年六月、テムクバの海軍は、サラクタマを奪回するため、他の軍港を拠点とする艦隊をサラクタマの近海に集結させた。それを迎え撃つタトラの艦船との間で発生した熾烈な海戦は、テムクバの勝利で幕を閉じた。タトラは南方の海域における制海権と制空権を失い、上陸させた歩兵師団に対する補給路を絶たれた。弾薬が尽きたタトラの歩兵師団は、降伏ではなく玉砕を選んだ。

天主暦二〇四七年四月、テムクバはタトラの本土に歩兵師団を上陸させた。テムクバ軍はタトラの主要都市を次々と陥落させつつ、首都であるカムサトナを目指して進撃した。この年の七月、テムクバはタトラに対して無条件降伏を勧告した。その勧告は、降伏後のタトラの体制について、祭祀王のいかなる権威も認めないという方針を示していた。タトラの政府は、タトラの象徴として祭祀王の制度を存続させることを降伏の条件とすることに固執した。

タトラの政府が降伏後の体制をめぐってテムクバとの交渉を重ねる間も、テムクバ軍は休息することなく進撃を続けた。戦場となった都市は焦土と化し、多数の民間人が戦闘に巻き込まれて犠牲となった。祭祀王のソベタムは、その惨状についての報告を聞いて心を痛めた。

八月十五日の深夜、ソベタムは王宮に総理大臣を招喚した。そして、祭祀王の制度を完全に廃止するというテムクバの方針を容認することを要請した。翌朝、総理大臣は閣僚を官邸に召集し、テムクバに対する無条件降伏を閣議決定した。そしてその日の正午、タトラの国民に対してその旨を発表した。

タトラを占領したテムクバの軍隊は、殉国神殿の廃止を宣言し、その建物に火を放った。次に彼らは、戦争を推進したタトラの指導者たちを審理する裁判を開廷し、彼らを戦争犯罪人として処刑した。さらに彼らは、タトラの新しい憲法の草案を起草した。その草案に基づいてタトラの政府によって起草された草案は、国会によって可決され、天主暦二〇四九年五月四日に施行された。

憲法は、その第一条でタトラの主権者はその国民であると規定していた。また第七条では、自衛権を含む一切の交戦権を放棄すること、およびいかなる戦力も保持しないことを規定していた。そして第十八条では、政治と宗教との厳格な分離を規定していた。

憲法は、祭祀王にはまったく言及していなかった。また、王位継承などの王族に関連する事項について定めた王室典範と呼ばれる法律も、天主暦二〇五〇年二月十二日に廃止された。したがって、それが廃止された日を以って、祭祀王とその一族は完全な民間人となった。彼らは宗教団体を設立し、崇敬者たちが納めた奉納金を資金源として従来通りの祭祀を続けた。

天主暦二〇五三年、テムクバとタトラは講和条約に調印し、その翌年、講和条約の発効によってタトラは主権を回復した。