[第五十三話]個体数

ガトマという惑星には、多種多様な植物が繁茂し、多種多様な動物が棲息していた。動物のうちで最も高い知能を持つ種の個体たちは、自身の種を「人間」と呼んだ。

人間の棲息域はガトマの陸地の大部分を覆っていたが、彼らが持つ言語や慣習や宗教などの文化は地域ごとに異なっていた。同質の文化を共有する人間たちは、「国」と呼ばれる共同体を作って自分たちが住む地域を管理した。

テモタという国では、ドリザス教という宗教が多くの人々によって信仰されていた。ドリザス教の教義の中心には「輪廻」と呼ばれる概念があった。輪廻とは、死んだ人間が別の人間として生まれ変わることである。現在の人間として生きている期間が「現世」と呼ばれるのに対して、生まれ変わる前の人間だった期間は「前世」、生まれ変わったのちの人間である期間は「来世」と呼ばれる。

ドリザス教においては、すべての人間は永遠に輪廻を繰り返す定めにあると考えられている。人間の一生は苦悩に満ちているが、苦悩の深刻さには個人差がある。ドリザス教は、現世における苦悩の深刻さは前世における行為によって決定されると説いている。すなわち、現世における善なる行為は来世における苦悩の深刻さを減少させ、現世における悪なる行為は来世における苦悩の深刻さを増加させると考えられているのである。

「王」と呼ばれる世襲される地位の者によって統治される国は「王国」と呼ばれる。テモタは二十三の小王国から構成される連合王国である。カルスベナはそれらの小王国の一つであり、この国の代々の王はコジヌス家という家系の者が務めていた。ベテリタスは奉還暦紀元前五世紀ごろに即位したカルスベナの王である。彼には三人の息子がいた。彼は先祖代々の慣習に則り、長男のケナムが五歳になった日に、「太子」と呼ばれる王の後継者に長男を推挙する儀式を挙行した。

ケナムの人生は快楽に満ちたものでなければならないと考えたベテリタスは、太子を決して王城の外に出さなかった。なぜなら、もしも王城の外で暮らしている人々は苦悩と無縁ではいられないと太子が知ったならば、その知識は太子の心に影を落すであろうと考えたからである。同じ理由で王は、太子の養育係の者たちに対して、人間の一生は苦悩に満ちたものであると説くドリザス教に関する知識を太子に与えてはならぬと厳命した。

十五歳になったケナムは王城の外の世界に対する好奇心を抑えることができなかった。彼は養育係の者たちの目を盗み、しばしば王城から抜け出して城下の市中を徘徊した。王城の外で彼が目にするものの多くは、王城の中では一度も目にしたことのないものだった。彼は通りすがりの人々を呼び止め、自身が疑問に思ったことを彼らに尋ねた。彼らの返答は多くの知識を彼に与えた。王城の外では人々は常に苦悩と隣合せで暮らしているという知識もその一つだった。

ある日、城下を徘徊していたケナムはドリザス教の神殿の前で足を止めた。好奇心に導かれるままに神殿の中に入った太子は、そこにいた無数の人々の一人に話しかけ、ここにいる人々は何をしているのかと尋ねた。その人は、自分たちは自分たちの来世が苦悩の少ないものになることを神々に祈願しているのだと答えた。太子はさらに来世とは何かと尋ねた。その人は輪廻について説明した。太子は輪廻を終わらせることはできないのかと尋ねた。その人は、自分はそのための方法を知らないが、ムキタガラにいる苦行者たちならばそれを知っているかもしれないと答えた。

ケナムはムキタガラに赴き、そこで出会ったトギリヌスという苦行者に、輪廻を終わらせる方法について尋ねた。苦行者は、我々は苦行を続けることが輪廻を終わらせる方法であると考えていると答えた。太子はさらに、苦行によって輪廻を終わらせることに成功した者はいるのかと尋ねた。苦行者は、それに成功した者は現在はまだいないと答えた。

ケナムは王城に戻り、自分は王に即位せず、輪廻を終わらせる方法を探求するために苦行者となることを決意したとベテリタスに告げた。王は太子を地下牢に幽閉し、彼に再考を促した。太子は雑用係の一人に地下牢の扉を開かせ、王城から脱出した。

苦行者となったケナムは、ムキタガラを拠点とする苦行者たちの指導のもとに苦行に励んだ。そして六年の歳月が流れた。ある日、死に至る直前まで断食を続けていた彼は、輪廻を終わらせる方法は苦行ではなく、あらゆるものに対する欲望を断つことであると悟った。

ケナムはムキタガラの苦行者たちに別れを告げ、鬱蒼とした森に覆われたルミカロタという地に籠り、あらゆるものに対する欲望を断つための修行を開始した。そして三年後、彼は自身の輪廻を終わらせることに成功した。すなわち、彼の現世での死は彼を完全に消滅させ、彼にはいかなる来世も存在しない、という境地に到達したのである。

人里離れた森に住む修行者が輪廻を終わらせる方法を会得したという噂は、カルスベナのみならずテモタの隅々にまで拡散した。ケナムのもとには、輪廻を終わらせることを望む多くの人々が集まり、彼に教えを乞うた。彼は、輪廻を終わらせるためにはあらゆるものに対する欲望を断つ必要があると語った。そして、輪廻を終わらせることに成功した人間は、人間が得ることのできる幸福のうちで最大のものを現世において味わい、死によって完全に消滅し、苦悩に満ちた人間として再び生まれてくることはない、と説いた。

ケナムが説いた教えを人々は「ケナム教」と呼んだ。ケナム教の信徒は出家者と在家信徒の二種類に分類される。出家者とは、「僧伽」と呼ばれる共同体の一員として共同生活を送りつつ、欲望を断つための修行に励む信徒のことである。そして在家信徒とは、一般の人々と同様の生活を送りつつ、来世における苦悩の深刻さを減少させるために、僧伽に対して様々な物品を喜捨する信徒のことである。

初期の出家者たちは、自分たちが共同生活を送るための粗末な僧院をルミカロタに建立した。彼らは毎朝、鉄鉢を携えて僧院を後にした。彼らが市中を歩くと、彼らを待ち受けていた在家信徒たちが施す食物で、彼らが持つ鉄鉢は瞬くうちに満杯となった。また出家者たちは、在家信徒から新品の衣服を喜捨されたとしても、それを着ることはなかった。彼らが着るのは、使い古されて捨てられた衣服のみだった。

性欲を満足させる行為は、在家信徒がそれをすることについては何の問題もなかったが、いかなる欲望も断たなければならない出家者たちにとって、それは絶対に避けなければならないものだった。性的な行為を他の出家者に見られた出家者は、修行を放棄したとみなされ、僧伽から追放された。

ケナムの死後、信徒たちは彼の教えを記した経典を編纂した。経典は出家者たちによって書写され、その写本はルミカロタから遠く離れた地に住む信徒たちに送られた。経典の写本を受け取った各地の信徒たちは、それぞれの地でケナムの教えを学習し、その一部の人々は出家してそれぞれの地に僧伽を設立した。

奉還暦四世紀には、ケナム教はテモタの周辺の国々にも伝えられた。それらの国々に住む初期の信徒たちは、テモタの言語で書かれた経典を母国語に翻訳した。彼らの尽力によって、それらの国々でも各地に僧伽が設立された。

テモタから北東に千数百里の距離にあるミゴナという国にケナム教が伝えられたのは奉還暦六世紀のことである。ミゴナでは、ケナム教は次第に土着化し、本来のケナム教とはまったく異なる宗教に変化していった。ミゴナに土着化したケナム教においては、出家者たちは自身の欲望を断つことにほとんど関心を払わなかった。十九世紀末期には、ミゴナの大多数の出家者が妻帯して子供を作るようになったが、その当時のミゴナにはそれを問題視する者は誰もいなかった。

テモタから西へ三千里の距離にある「サクパトナ」と総称される国々では、奉還暦一世紀に創始されたモキマス教という宗教を信奉する人々が人口の大多数を占めていた。それらの国々にケナム教が伝えられたのは奉還暦十九世紀のことである。しかしその当時、それらの国々に住む人々のうちでケナム教に関心を持つ者は一部の学者たちのみであり、二十一世紀後半まで、その宗教の信徒になる者はほとんどいなかった。

テモタとサクパトナの中間に位置する国々は、「マリガムカ」と総称される。マリガムカのほとんどすべての国では、奉還暦七世紀に創始されたコタナメ教という宗教のみが公認され、それ以外の宗教は排斥されていた。したがって、それらの国々の人々は、固有の宗教の信仰を許された一部の少数民族を除いて、そのすべてがコタナメ教の信徒だった。マリガムカにおいてケナム教への改宗が始まるのは二十二世紀後半のことである。

奉還暦一九八六年にミゴナに生まれたキナカクタは、古代のテモタの言語について大学で学び、ケナム教の経典に関する卒業論文を大学に提出した。彼女は、ミゴナにおいて「ケナム教」と呼ばれている宗教がケナム自身の教えとはまったく異なるものであることは重大な問題であると考えた。大学を卒業したのち、彼女は、ケナム自身の教えをミゴナの多くの人々に知ってもらいたいと望んだ。そしてそのためには自身がケナムの教えを実践しなければならないと考えた。そこで彼女は、人里離れた地に草庵を結び、自身の欲望を断つための修行を開始した。

三年後、キナカクタは自身の輪廻を終わらせることに成功した。彼女は、自身が実践した修行の方法、および輪廻を終わらせることによって得られる至上の幸福について明らかにする書物を著わした。彼女の書物は多くの読者を獲得した。その書物を読んで感銘を受けた人々は俗世間との関係を絶って彼女の弟子となった。

キナカクタは、自身の教えは独自のものではなく、ケナムの教えを忠実に再現したものに過ぎないと考えていた。しかし、彼女の弟子ではないミゴナの人々にとっては、ミゴナに土着化したケナム教こそが真のケナム教であり、キナカクタの教えはケナム教に名を借りた怪しい新興宗教に過ぎなかった。彼らは彼女の教えを「ケナム教」とは呼ばず、「キナカクタ教」と呼んだ。

キナカクタはケナムの教えを実践する僧伽を創設した。彼女の僧伽に加わった彼女の弟子たちは、片田舎の土地を購入し、そこに寺院を建立した。彼らは当初、食物は托鉢によって確保することができるであろうと考えていた。しかし、鉄鉢を持って家々を巡る出家者たちを見る人々の視線は冷たかった。托鉢によって食物を確保することは困難であると知った彼女の弟子たちは、広大な農園を作り、そこで様々な農作物を耕作することによって食物を自給自足することに方針を転換した。また、出家者たちのうちで有用な特技を持つ者たちは、その特技を活かして様々な製品を生産した。それらの製品は金銭と交換され、その金銭は、出家者たちが使う日用品や、新たな寺院を建立するための土地を購入するために活用された。

キナカクタの僧伽が活動を開始して三年を経過したころには、彼女の弟子たちの中からも、輪廻を終わらせることに成功する者が次々と現れるようになった。それらの者たちの一部は、彼女がかつてそうしたと同様に、自身が実践した修行の方法、および輪廻を終わらせることによって得られる至上の幸福について明らかにする書物を著わした。それらの書物は、彼女の僧伽を構成する出家者たちの人数を増加させる原動力となった。

キナカクタの弟子たちの人数は増加の一途をたどった。彼女は奉還暦二〇七八年に入滅したが、そののちも彼女の僧伽に新たに加わる者たちが減少することはなかった。二一〇九年には、彼女の僧伽で修行に勤しむ出家者の人数はミゴナの人口の半数を超えた。

キナカクタの弟子となった者たちの中には、ミゴナに住む外国人も少なからず含まれていた。彼らは彼女が書いた書物を自身の母国語に翻訳した。それらの翻訳書は、それらの言語を公用語とする国々で出版され、ミゴナ人ではない多くの人々に彼女の教えを伝えた。

サクパトナにおいては、奉還暦二十一世紀に世俗化が進んだことによって、モキマス教を信仰する人間は少数派となっていた。物事を合理的に考え、モキマス教の信仰を持たないサクパトナの人々の多くは、キナカクタの書物を読んで新鮮な感動を覚えた。モキマス教の死生観は彼らに強い違和感を感じさせるものだったが、それに較べると、輪廻という教義が彼らに感じさせる違和感はそれほど強いものではなかった。また彼らは、修行によって至上の幸福が得られるという教義に対して極めて強い期待を抱いた。彼らはサクパトナの各地に僧伽を創設し、キナカクタの書物に記された修行を実践した。そして数年後には、彼らの中からも輪廻を終わらせることに成功する者が現れた。サクパトナにおける出家者たちの人数が人口の半数を超えたのは、二一七三年のことだった。

マリガムカに属する諸国の首長たちは、自国の国民がコタナメ教からケナム教へ改宗することを未然に防止するため、キナカクタの書物を国内で販売することを禁止した。しかしこの禁止令は、却って人々の好奇心に油を注ぐ結果となった。多くの者たちが彼女の書物を国外から密かに持ち込んだ。それらの書物は人から人へ手渡しされ、人々は貪るようにそれを読んだ。奉還暦二一八〇年代には、マリガムカの諸国でケナム教の合法化を求める運動が吹き荒れ、多くの国々でケナム教に寛容な政権が樹立された。マリガムカにおける出家者たちの人数が人口の半数を超えたのは、二二一四年のことだった。

惑星ガトマに棲息する人間の個体数は、奉還暦二十二世紀半ばまでは増加の一途をたどっていたが、二十二世紀後半で減少に転じた。その最大の要因はケナム教の出家者の増加だった。自身の輪廻を終わらせるための修行の途上にあるケナム教の出家者にとって、性欲を満足させる行為を完全に絶つことは、修行を完成させるために必要不可欠なことだった。そして、自身の輪廻を終わらせることに成功した出家者は、生殖というものに対する関心をまったく持たなかった。したがって、僧伽の内部で子供が生まれるということはあり得ないことだった。

ケナム教の信徒ではない人々の中には、人間という種がケナム教の蔓延によって絶滅するのではないかという危惧を抱く者も少なくなかった。そのような者たちは、人間の絶滅を回避するためにケナム教を法律で規制する必要があると訴えた。しかし、それに反対するケナム教の信徒たちのほうが多数派である状況では、ケナム教の規制が法制化される見込みは皆無だった。

ミゴナでは、奉還暦二一四八年に、すべての国民がキナカクタの僧伽に所属する出家者となった。バリトルムという出家者が彼女の僧伽に加わったのは、その三年前のことである。彼はそのとき二歳であり、彼の出家は彼の両親の出家に伴うものだった。彼は、出家した他の幼児たちと同様、六歳になった年に修行を開始した。

バリトルムは、他の出家者たちの模範となるほど真剣に修行を続けた。しかし、修行を開始してから三十数年を経ても、依然として輪廻を終わらせることに成功していなかった。同じ時期に出家した者たちが次々と輪廻を終わらせていくのを横目で見ながら、彼は、すべての欲望を断つという方法では輪廻を終わらせることができない人間も存在しているのではないかと考えた。そして、すべての人間がそれによって輪廻を終わらせることができる方法について模索を開始した。

バリトルムは、輪廻を終わらせる普遍的な方法を模索する上で、ミゴナに土着化したケナム教が参考になるのではないかと考えた。そこで彼は、ケナム教の土着化に貢献した過去の出家者たちが残した書物を大量に僧院に持ち込み、寸暇を惜しんでそれらを読み進めた。

輪廻を終わらせる普遍的な方法にバリトルムが到達したのは、模索を開始してから七年後のことだった。彼は、自身と同様に三十年以上も修行を続けているにもかかわらず依然として輪廻を終わらせることができずにいる者たちを集め、彼らに次のように語った。

「欲望を断つという行為は自然の摂理に反しており、それは輪廻を終わらせる方法としては邪道である。また、この方法はすべての人間について普遍的に効果があるとは言えない。普遍的に輪廻を終わらせることができる正しい方法の一つは、遥かな過去に輪廻を終わらせることに成功したミネクトプロスという伝説上の出家者の名前を唱えることである。ただし、この方法では、輪廻が終わるのは現世の生存中ではなく、現世の生を終えたのちである。したがって、現世における苦悩は甘受しなければならない。ケナムやキナカクタは、現世の生存中に輪廻を終わらせることによって至上の幸福が得られると主張しているが、至上の幸福というものはそのような自己完結的なものではなく、他者との関係性の上に成り立つものである」

バリトルムはキナカクタの僧伽から脱退し、独自の僧伽を創始した。バリトルムの説教を聴いた出家者たちの多くも彼と行動を共にした。そして彼らは、バリトルムを導師として、ミネクトプロスの名前を唱える修行を開始した。導師は、性欲は人間にとって自然な欲望であり、それを満足させる行為は修行の妨げとはならないと弟子たちに説いた。彼らの多くは配偶者と結ばれ、妻となった者たちは子供を出産した。

奉還暦二十三世紀後半には、多くの国々で、すべての国民がケナム教の出家者であるという状況が発生した。そのような状況に陥った国々は、すべての出家者の寿命が尽きた時点ですべての国民を失うこととなった。このようにして、惑星ガトマのほとんどすべての国は二十四世紀末期までに滅亡するに至った。二十五世紀のガトマに存在する国は、バリトルムが創始した僧伽が活況を呈するミゴナのみだった。