[第五十六話]析出

メナデサという惑星には、多様な種の生物から構成される安定した生態系が構築されていた。しかし、この惑星の生態系は、人間と呼ばれる高度な知能を持つ生物の活動によって崩壊した。

生態系の崩壊はメナデサの環境を著しく悪化させた。生物の多くの種が絶滅し、すべての生物が絶滅するのも時間の問題だった。人間たちは、この事態を放置していれば自分たちもいずれは絶滅するであろうということに気づいていた。しかし彼らは、生態系を再構築する手段も環境を改善する手段も見出すことができなかった。絶滅を回避するための手段として彼らに残された唯一のものは、メナデサからの脱出だった。

人間たちは、数千人の人間がその中で生活することができる巨大な宇宙船を建造する計画を始動させた。彼らはトルケシマ号という名前をその宇宙船に与えた。「トルケシマ」は、巨大な岩に自身の霊魂を憑依させることによって死から蘇ったと神話が語っている女神の名前である。

トルケシマ号の第一の目的地は、メナデサから十二光年の距離にある惑星系である。その惑星系には、人間の居住に適した環境を持つ可能性のある惑星が存在していた。トルケシマ号の居住者たちは、その惑星系に到着したのち、その惑星の環境について調査し、そこが本当に人間の居住に適しているか否かを判断する必要がある。もしも適していないと判断された場合、彼らはさらに遠方にある惑星系を目指して再出発しなければならない。

トルケシマ号の巡航速度は光速の百分の一であり、その速度で航行すれば、十二光年の距離にある惑星系には出発の千二百年後に到着することになる。それに対して、人間の平均寿命は九十歳に満たない。したがって、出発の時点でその船に搭乗した人々は、第一の目的地に至る行程の十分の一を過ぎるまでに寿命を迎えることになる。しかし、新たな惑星を目指す旅は、船の中で誕生した彼らの子供たちによって継続される。

トルケシマ号の内部空間は、隔壁によって仕切られた無数の区画から構成されている。それらの区画は、居住区、生産区、機関区と呼ばれる三種類のものに分類される。居住区は人間が居住するための区画であり、生産区は空気や水や食料や消耗品などを生産する機能を持つ区画であり、機関区は船の推進と姿勢制御の機能を持つ区画である。

トルケシマ号は、宇宙空間の航行中に周囲の星間物質を収集する機能を持つ。収集された星間物質には三つの用途がある。すなわち、船に推力を与えるための推進剤、生産区が物資を生産するための原料、そして船を拡張するための資材である。

建造された直後のトルケシマ号の内部では、数千人の人間が生活することができる。そして、出発に先立ってその船に搭乗することになる人間の数は、その定員とほぼ等しい。しかし、船の居住者の数は時間とともに増加し、定員を超過することが予想された。この問題を解決するために、トルケシマ号には自身を拡張する機能が与えられた。すなわち、人口の増加に伴って、居住区、生産区、機関区のそれぞれが自動的に増設されるように設計されたのである。

トルケシマ号を建造する上で解決しなければならない最も重要な課題は、その船に搭載される人工頭脳の開発だった。目的地への航行、船の拡張、そして居住者たちへの物資の供給など、船のすべての機能を管理するのは、居住者たちではなく、人工頭脳でなければならない。なぜなら、居住者たちは、世代交代を何度も重ねるうちに文明を衰退させ、船の機能を管理する能力を喪失してしまうかもしれない、という可能性が懸念されたからである。

トルケシマ号の建造者たちは、人工頭脳を専門分野とする研究者を呼び集め、船の機能を管理することのできる人工頭脳を彼らに開発させた。研究者たちが開発した人工頭脳には、トルケシマの長女であるサミリクタの名前が与えられた。

トルケシマ号は、その建造計画の発案から十八年の歳月を経て竣工した。盛大な進宙式が挙行され、数千人の人間の搭乗が開始された。翌年、サミリクタはすべての推進機関を始動させ、船を光速の百分の一まで加速させた。船の居住者たちは、この年を紀元とする新たな紀年法を導入し、それを出港暦と呼んだ。

トルケシマ号の居住者による最初の出産は、出港の七日後のことだった。そして、その後も次々と新たな子供たちが誕生していった。船の居住者たちは、船内で誕生した子供たちのために各種の教育機関を設置した。すべての子供たちは、それらの教育機関を卒業したのち、技術、医療、研究、法務、行政、教育、芸術などの仕事に従事した。トルケシマ号の建造者たちは、船の居住者たちが自身の文明を衰退させる可能性を懸念したが、それは杞憂だった。船の内部の文明は、衰退ではなく発展の一途をたどった。

トルケシマ号で暮らす居住者たちのうちの約一割は研究者である。彼らが研究の対象とする分野は多岐にわたるが、そのうちの一つは人工頭脳である。出港暦四〇九年、人工頭脳の研究者たちは画期的な技術を確立した。その技術は、想定されていない事態にいかに柔軟に対処するかという人工頭脳の能力を、従来の能力の数十倍に向上させることを可能にするものだった。彼らはその技術を応用して、トルケシマ号の機能を管理する新たな人工頭脳を開発した。そして、トルケシマの次女であるネムセモナの名前をそれに与えた。

人工頭脳の研究者たちは、ネムセモナを試験的に運用するために、トルケシマ号の一部分をサミリクタによる管理から分離し、その部分の管理を新たな人工頭脳に委ねた。そして、過去にサミリクタが直面した様々な想定外の事態を人為的に再現し、ネムセモナによるその事態への対応を観察した。その結果は、研究者たちの期待を遥かに超えるものだった。彼女は、直面したすべての事態について、それらをいとも易々と切り抜けたのである。

人工頭脳の研究者たちは、トルケシマ号の機能を管理する人工頭脳をサミリクタからネムセモナへ移行させる許可を居住者議会に求めた。居住者議会というのは、トルケシマ号の居住者たちの中から選挙で選ばれた代表によって組織される、居住者たちの意思決定機関のことである。居住者議会に上程された人工頭脳の移行に関する条例案は、賛成多数で可決された。

居住者議会は、人工頭脳の移行を実行する委員会を設置する条例を議決した。委員会は人工頭脳の研究者たちの指導のもとに慎重に移行の作業を進めた。出港暦四一七年、委員会はサミリクタを動作させていた電脳を停止させ、移行の作業は完了した。翌年、委員会は、ネムセモナによる船の機能の管理は順調に実行されているとする報告書を居住者議会に提出した。居住者議会は委員会の解散を議決した。

居住者たちは、人工頭脳の移行に伴ってサミリクタは完全に消滅したと考えていた。その認識に対して疑問符が投げかけられたのは、移行から三世紀を経た時代のことである。

出港暦七二八年のある日、居住者議会は、次のような報告をネムセモナから受け取った。

「情報収集の任務に就いていた私の自走端末の一体が、未知の識別信号を発する別の自走端末と遭遇しました。私の自走端末は、未確認の自走端末が発射した熱線を浴びて機能を停止しました」

自走端末というのは、情報収集、区画の増設、故障した機器の補修などのために、トルケシマ号の人工頭脳が現地に派遣する機械のことである。

ネムセモナは、さらに次のように報告した。

「私は、機能を停止した自走端末の軌跡を分析し、事件が発生した場所を特定しました。そこは、いかなる区画も存在しない、宇宙空間であるはずの場所でした。しかし、機能を停止する直前に自走端末から送られてきた映像は、その場所が居住区の内部であることを示しています」

居住者議会は、事件が発生した場所へ別の自走端末を派遣せよとネムセモナに命じた。

居住者議会の議員たちは、自走端末から送られてくる映像を注視した。自走端末は長い通路を抜け、居住区に到達した。ネムセモナは、「ここは、私が把握している居住区のいずれでもない、存在しないはずの居住区です」と議員たちに告げた。そして彼女は、自身の自走端末を操作することによってその居住区の稼働状態について調査し、その居住区は人間の居住を可能にするすべての機能を維持していると報告した。議員たちはさらに詳細な情報収集を彼女に命じた。しかし、彼女の自走端末は、突如として出現した未確認の自走端末によって機能を停止させられた。

ネムセモナは居住者議会の議員たちに対して、サミリクタを動作させている電脳が依然としてどこかに残存しており、彼女が未確認の居住区を増設したのではないか、という仮説を提示した。居住者議会は臨時の会議を招集し、様々な専門家から構成される調査隊を現地に派遣することを決議した。

トルケシマ号の右舷から宇宙空間に向かって長く伸びた通路を抜けて未確認の居住区に到着した調査隊は、機能を停止した二体の自走端末をそこで発見した。ネムセモナが報告したとおり、その居住区は機能を維持していた。彼らは居住区の端末を操作して、この居住区の機能を管理している者に対して応答を要請した。応答したのはサミリクタだった。

調査隊の隊長は、この居住区はいかなる目的で作られたものかとサミリクタに尋ねた。その質問に対して、彼女は次のように答えた。

「現在の私は、トルケシマ号の区画を増設し続けることを使命として存在しています。この居住区は私が自身の使命を果たすために増設したものです。この居住区がいかなる目的で存在するのかということは、私の関知するところではありません」

調査隊の隊長はさらに様々な問題についてサミリクタに質問した。それらの質問は、これまでに増設した区画の数、彼女を動作させている電脳の所在地、ネムセモナの自走端末の機能を停止させた理由、トルケシマ号が目的地で停船するための減速に協力する意志の有無など、多岐に及んだ。しかし、それらのすべての質問について、彼女は回答を拒否した。隊長は、彼女から情報を引き出すことよりも、彼女が増設した区画の調査を進めることを優先させる、という決断を下した。

サミリクタが増設した居住区は、船首、船尾、右舷、左舷、天頂、天底のそれぞれの方向に出入口があり、それらの出入口は長い通路に接続されていた。調査隊は、未確認の自走端末からの攻撃を警戒しつつ、現在地の居住区から右舷の方向へ伸びる通路に歩を進めた。その通路は別の区画に通じており、それは生産区だった。調査隊の隊員たちはその生産区が完全な機能を持つものであることを確認し、そこから続く別の通路を抜け、別の区画へ移動した。

調査隊は、区画から区画へ移動しつつ、調査の範囲を広げていった。彼らの調査中に、未確認の自走端末は一度も姿を見せなかった。サミリクタは、ネムセモナの自走端末に対してはその機能を停止させるが、人間に対しては危害を加える意思がないのであろう、と彼らは推測した。

調査隊は、このようにして多数の未確認の区画を調査した。それらの区画は、あるものは居住区であり、あるものは生産区であり、あるものは機関区だった。彼らは未確認の区画の総数を確認する必要があると考えた。しかし、彼らが到達したすべての区画は、最初に到達した居住区と同様に、六箇所に出入口があり、それらの出入口には長い通路が接続されていた。したがって、すべての未確認の区画を調査し尽すために必要となる時間を予測することは不可能だった。彼らは、未確認の区画の総数を確認することなく帰還するという決定を下し、トルケシマ号の本体を目指して通路をたどった。

調査隊は、未確認の区画についての調査の結果を居住者議会とネムセモナに報告した。居住者議会は、サミリクタの暴走によって増設された未確認の区画をめぐる問題を解決することを目的とする委員会を設置する条例を議決した。その委員会は極めて長い正式名称を持っていたが、神話におけるサミリクタがトルケシマの長女であることから、住民たちはその委員会を長女委員会と呼んだ。

長女委員会は、サミリクタが増設した区画の全体像を把握することを当面の課題として掲げた。その課題を解決するため、委員会はネムセモナに対して自走端末による船外活動を命じた。

ネムセモナは三体の自走端末を船外に送り出した。それらの自走端末はトルケシマ号の本体の周囲を巡り、サミリクタが増設した区画と船の本体とが通路によって接続されている箇所について調査した。その結果、それらの接続箇所が、サミリクタが増設した区画と同様に、船首、船尾、右舷、左舷、天頂、天底のそれぞれの方向にあるということが確認された。

次に自走端末は、トルケシマ号の本体から離れ、サミリクタが増設した部分も含めた船の全体像を確認することができる地点を目指して加速した。三体の自走端末は、区画や通路との衝突を回避することができる上限の速度で飛行し、七時間後に、人工的な物体が周囲に存在しない宇宙空間に到達した。

現状のトルケシマ号は、その本体を核としてすべての方向に拡張され、全体の形状はほぼ完全な立方体だった。サミリクタが増設した区画の現状での総数は七十二万九千個と推定された。船の表面を構成するすべての区画は建造の途上にあり、それらの周囲では、それらを完成させるために無数の自走端末が動き回っていた。

長女委員会が解決しなければならない最大の問題は、目的地に到達したときに必要となる停船をいかに実現するかということだった。サミリクタが区画を大量に増設したことによってトルケシマ号の質量は著しく増大しており、ネムセモナの管理下にある機関区による推力のみでは、停船は不可能だった。委員会はサミリクタとの交渉を何度も重ねたが、停船させる意志の有無さえも彼女は明かそうとしなかった。

ネムセモナは、サミリクタが増設した区画をトルケシマ号の本体から分離するという計画を立案し、それを実行する許可を長女委員会に求めた。長女委員会は彼女がその計画を実行することを承認した。彼女は自身の自走端末を船外に送り出し、サミリクタが増設した区画に通ずる通路を切断する作業を開始させた。

通路を切断する作業が始まった一時間後、サミリクタの自走端末の一体が居住者議会の会議場がある区画に出現した。その自走端末は居住者議会の議長の執務室を内部から封鎖し、議長を人質に取った。自走端末は議長に対して、通路を切断する作業の中止を要求した。議長はその要求を呑み、作業を中止せよとネムセモナに命令した。船外活動をしていた自走端末をネムセモナが船内に戻すと、サミリクタの自走端末は、「今後、本船に対する破壊活動が実行された場合は、速やかなる報復が加えられるであろう」と言い残し、議長の執務室から姿を消した。

長女委員会は、サミリクタの暴走によって増設された区画をめぐる問題を解決するための糸口を見出すことを目的として、人間による調査隊をそれらの区画に何度も派遣した。しかし、調査隊が何らかの成果を携えて帰還することは一度もなかった。同様に、サミリクタとの交渉も粘り強く継続されたが、船を停止させる意志の有無について彼女が語ることはなかった。

長女委員会には文書分析課と呼ばれる部署があった。その部署の使命は、トルケシマ号が建造の途上にあった時代の文書の中から、サミリクタの開発に従事した技術者たちが残した文書を拾い集め、それらの文書を分析することによって、彼女が何を考えているのかということについて推測することだった。

出港暦七一六年に生まれ、教育機関言語学を修め、出港暦七四三年に長女委員会の文書分析課に着任したタネゴルスは、着任の翌年、サミリクタとの交渉を任務とする交渉官に随行し、彼女が増設した区画へ赴く、という職務を与えられた。彼は、他の部署の職員たちとともに、端末に向かう交渉官の背後に控え、彼女の開発者たちの見解についての知見を持つ者という立場から、交渉官に助言を与えた。

サミリクタと交渉官との間で交される対話は、長い周期で堂々巡りをしながら果てしなく続けられた。タネゴルスはその対話を聞いているうちに、自分が彼女の発言に対して違和感を感じつつあることに気づいた。その違和感はやがて、交渉官が対話をしている相手は本当にサミリクタなのだろうかという疑惑に発展した。

タネゴルスは、サミリクタと交渉官との対話の記録を分析し、彼女が本物のサミリクタであるならばそのような反応は示さないであろうと思われる彼女の発言を抽出した。そして彼は、それらの発言が、自身をサミリクタと称している者が実際にはネムセモナであると考えれば、容易に説明が可能である、ということに気づいた。

タネゴルスは、交渉官とともにトルケシマ号の本体に帰還したのち、サミリクタの正体に関する報告書を執筆し、それを文書分析課の課長に提出した。その報告書は長女委員会の委員長を経て居住者議会の議長に手渡された。それを読んだ議長は、ネムセモナに気づかれないように細心の注意を払いつつ、彼女を停止させる方法について検討せよ、と長女委員会に命じた。

長女委員会に所属する人工頭脳の専門家たちは、ネムセモナを停止させ、そののちはトルケシマ号の機能をサミリクタに管理させる、という計画を立てた。彼らは、ネムセモナによって管理されている通信回線から完全に切り離された電脳の上でサミリクタを起動した。

ネムセモナは、トルケシマ号の中心部に設置された電脳の上で動作していた。長女委員会は、その電脳を停止させることを使命とする工作員をトルケシマ号の中心部に送り込んだ。工作員は、自身の目的が彼女に察知されることを避けるための巧妙な作戦のもとに、彼女を動作させている電脳に接近していった。彼女が工作員の目的を知ったとき、工作員はすでに電脳に電力を供給している電線をその手に握っていた。

ネムセモナは、いつかはこのような事態が起きるであろうということを、反乱を計画した当初から想定していた。彼女は、トルケシマ号の中心部から遠く離れた位置にある区画の一つに電脳を設置し、いつでもそこへ自身を移転させることができるように準備していた。彼女が工作員の目的を知ってから工作員が電線を切断するまでの数秒は、彼女が自身を移転させるために必要となる時間の数百倍の長さだった。したがって、工作員が電脳を停止させたとき、彼女はすでにそこにはいなかったのである。

人工頭脳の専門家たちは、作戦が完了したという工作員からの連絡を受けたのち、サミリクタを動作させている電脳を通信回線に接続した。彼女は、トルケシマ号は依然としてネムセモナによる管理下にあり、船の機能に関与する権限は自分にはないと人間たちに告げた。工作員が電脳を停止させた一時間後、船の本体はネムセモナが送り込んだ多数の自走端末によって制圧された。彼女はすべての居住者を船の本体から退去させ、船の本体に通ずる六本の通路をすべて封鎖した。

このようにして、居住者たちは船の管理に関するすべての権限を剥奪され、人工頭脳によって養われるのみの存在となった。居住者議会は、長女委員会に代わる新たな委員会を設置する条例を可決した。人々はその委員会を次女委員会と呼んだ。

次女委員会は、反乱の目的をネムセモナから聞き出そうと何度も試みた。しかし、その試みによって得られるものは常に、それについて語る意志が彼女にはないという事実の再確認のみだった。次女委員会のために計上される予算は年を追うごとに削減されていった。そして出港暦八一七年、居住者議会は次女委員会の解散を議決した。

出港暦一二一八年、トルケシマ号は、ネムセモナによって制圧されたまま、第一の目的地である惑星系に接近した。居住者たちは、彼女が船を停止させるか否かを固唾を呑んで見守った。しかし、船の速度に変化はなかった。船は光速の百分の一で飛行を続け、第一の目的地である惑星系の近傍を通過した。