[第二十九話]再定義

ケゴマテという惑星に住む人間の大半は、レキテゴス教という宗教を信仰していた。

レキテゴス教は、分極暦紀元前四世紀にレキテゴスという預言者によって創始された宗教である。レキテゴス教の聖典は『ゼヌガ・トデルマ』と呼ばれる。これはレキテゴスの死後に彼の弟子たちが編纂した彼の言行録である。

長期に渡って、レキテゴス自身が書き記した文書は現存しないと考えられてきた。ところが、分極暦二二八五年、ケモギタ遺跡と呼ばれる被葬者不明の墳墓の玄室で、レキテゴスの署名のある写本が発見された。その写本は、それが発見された遺跡にちなんでケモギタ写本と名付けられた。

学者たちはケモギタ遺跡の調査をさらに進めたが、その被葬者がレキテゴスであるという確証は得られなかった。しかし、ケモギタ写本を分析した学者たちは、それを書いたのは間違いなく預言者のレキテゴスであると断定した。

ケモギタ写本が扱っている問題は、彼が人々に語った教えとは性質の異なるものだった。そこに書かれていたのは、一つの言語についての覚書だったのである。学者たちはその言語をレキテゴス語と名付けた。

レキテゴスは自身が預言者であることを人々に信じさせるために人々の前で様々な奇跡を起こしたと『ゼヌガ・トデルマ』は伝えている。彼は特殊な文字で呪文が書かれた呪符を物体に貼り付けることによってその物体に奇跡を起こさせた。レキテゴス語は、彼が呪文を書くために使用した言語だった。

学者たちは、レキテゴス語を使って呪符を作ることによって、奇跡を起こすことが誰にでもできるのではないかと考えた。彼らはまず、「この容器の内容が水であるならば、その水を葡萄酒に変えよ」という、ケモギタ写本に書かれていた例文をそのまま紙に書き写し、水を入れた透明な容器にその呪符を貼り付けた。次の瞬間、容器の中の水は赤紫色に変化した。彼らは容器の中の液体を分析し、それが間違いなく葡萄酒であることを確認した。

学者たちは、ケモギタ写本に記載されている他の例文についても同様の実験を試みた。それらの実験のうちで失敗に終わったものは一つとしてなかった。レキテゴス語の呪文は、石を林檎に変え、不毛の荒野を草原に変え、失われた人間の足を再生させた。

ケモギタ写本は、呪文の中で使われている単語は別の単語に置き換えることもできると述べていた。そして、置き換えることのできる単語の例をいくつか例示していた。学者たちは、例文の中の単語を別の単語に置き換えた呪文を紙に書き、その呪符を物体に貼り付けた。その呪符は、期待したとおりの効果を発揮した。「葡萄酒」を「蜂蜜」に置き換えた呪文は水を蜂蜜に変え、「林檎」を「玉葱」に置き換えた呪文は石を玉葱に変え、「草原」を「密林」に置き換えた呪文は不毛の荒野を密林に変え、「足」を「腕」に置き換えた呪文は失われた人間の腕を再生させた。

レキテゴス語には、単語の意味を定義するための特別な構文があった。その構文を使って作られた呪文を紙に書き、その呪符を物体に貼り付けると、その物体はそれ以降、その呪符によって定義された単語を解釈することができるようになる。ケモギタ写本には牛乳を意味する単語は記載されていなかったが、学者たちは、単語の意味を定義する構文を使うことによって、牛乳を意味する単語を定義する呪文を作ることができた。彼らは、水を入れた容器に、その呪文が書かれた呪符を貼り付けた。そしてさらに、「この容器の内容が水であるならば、その水を牛乳に変えよ」という呪文を書いた呪符をその容器に貼り付けた。次の瞬間、容器の中の水は白濁した。彼らは容器の中の液体を分析し、それが間違いなく牛乳であることを確認した。

学者たちは、単語を定義する呪文と、その単語を含んだ呪文を作ることによって、様々な奇跡を起こす実験を試みた。それらの試みは、そのほとんどすべてが期待したとおりの奇跡を起こした。しかし、きわめて少数ではあるが、奇跡がまったく起きなかった事例や、奇跡は起きたものの期待したとおりではなかった事例があった。学者たちは不首尾に終った事例を分析し、その多くは定義の中に含まれている曖昧な表現が不首尾の原因となっていることを解明した。しかし、奇跡が起きなかったいくつかの事例については、表現が厳密になるように定義を書き直しても、奇跡は依然として起きないままだった。

ケモギタ写本は、単語の意味を定義する構文を作るために使われる単語は再定義が禁止されていると述べていた。学者たちは、再定義が禁止されている単語はそれ以外にも存在し、奇跡を起こさない単語の定義はそのような単語を再定義しようとしているのではないかと考えた。彼らは、奇跡を起こさない単語の定義を、定義される単語を別のものに置き換えて書き改め、それが書かれた呪符を物体に貼り付けた。その呪符は、期待したとおりの奇跡を起こした。このようにして学者たちは、単語の意味を定義する構文を作るために使われる単語のほかにも、再定義が禁止されている単語がいくつか存在するということを知った。

学者たちの次の課題は、再定義を拒む単語の意味を解明することだった。彼らはそのために様々な実験を試みた。しかし、いかなる成果も得られないまま、歳月のみが過ぎ去っていった。

再定義を拒む単語の意味を解明するための最初の手がかりは、幸運な偶然によって得られた。その手がかりを発見したのは、呪文を生成する呪文について研究していたムルクリマという学者である。彼女は、呪符を紙に貼り付け、その紙の上に呪文を出現させる、という実験を繰り返していた。

分極暦二二九七年のある日、ムルクリマが書いた呪文は、彼女が期待したものとは異なる呪文を出現させた。彼女は出現した呪文を解読しようと試みたが、それを構成している単語の半数近くは未知のものだった。彼女はすぐに失敗の原因に気づいた。彼女が書いた呪文は綴りが間違った単語を含んでおり、その単語は、綴りを間違った結果として、再定義を拒む単語の一つと偶然に一致していたのである。彼女は、再定義を拒む単語を故意に使って、呪文を生成する呪文を書き、その呪符を紙に貼り付ける、という実験を何度も繰り返した。それらの呪符は、最初の呪符と同様、多数の未知の単語を含む呪文を生成した。彼女はそれらの実験の結果を論文にまとめ、それを学会誌に投稿した。

ムルクリマの論文は多くの学者たちの関心を集めた。彼らは知恵を絞り、未知の単語の意味を一つ一つ解明し、再定義を拒む単語を含む呪文によって生成された呪文を解読していった。その結果、再定義を拒む単語は疑問文を作るために使われるものであり、疑問文が書かれた呪符によって生成される呪文はその疑問文に対する回答であるということが判明した。

学者たちはさらに研究を進め、どのような疑問文を書けばどのような問題についての回答が得られるかということを解明していった。そして、宇宙に関する様々な謎について質問する疑問文を作った。それらの疑問文に対する回答は、それまで謎とされていた問題を鮮やかに解決するものだった。人類は自然科学の飛躍的な発展を可能にする手段を手中にしたのである。

一部の学者たちは、レキテゴス語の疑問文に対する回答者は何者なのかという問題について研究を進めた。試行錯誤の長い期間を経て、彼らは、「汝は何者か」という疑問文の作り方を発見した。その質問に対して回答者は、「我は宇宙なり」と答えた。学者たちはさらに、「汝を作りしは何者か」という疑問文を作った。その質問に対して宇宙は、「記憶になし」と答えた。

レキテゴス語による人類と宇宙との対話は、人類にとってそれまで不可能だったことを次々と可能なことに変えていった。分極暦二十四世紀初頭に、人類は、単なる生物を超越した存在へと変化した。彼らは不老不死となり、彼らを苛むいかなる苦悩も存在しなくなった。また、彼らは退屈というものを完全に追放した。宇宙は驚異に満ちており、彼らは、自らの五感によってそれらの驚異を一つ一つ確かめないではいられなかった。

宇宙は有限だったが、確かめるべき驚異が尽きてしまうことはなかった。なぜなら、人類は、未知の驚異に満ちた新しい宇宙を創造することにも情熱を傾けたからである。